死ぬまでの暇潰し 白石昇 |
最初に視界に入ってきたのは窓の外を流れる景色でした。私は眠っていたのではなく、確実に起きてはいて、目の前にあるものがちゃんと見えてはいたのですが、自分の意識がはっきりとしたのはこの時が初めてのような気がしました。それまでの私は起きていながらも眠っているような状態だったのです。
「チャンさん、どうしたの?」 私の変化を察知したのか、隣に座っていた青年が私に声をかけてきました。青年は日本人でした。 私はその青年の名前を確実に知ってはいるのですが、思い出そうとしてもなかなか思い出せませんでした。おそらく、思い出そうと努力すればちゃんと思い出せるのだと思います。でも、私は無理に思い出そうとはせずに黙って窓の外を見続ける事にしました。 椰子の樹がしなるように空に向かって伸びていて、それらの樹々を見ているのはとても気持ちのよい事でした。私は窓の外から視線を車内に戻して、隣に座っている青年に向かって何か言おうと思ったのですが、口を開いても上手く言葉が出て来ませんでした。私はおとといの盤、病院に運ばれてから自分が喋れなくなっていた事を思い出しました。 「チャンさんほら、このバスVIPバスだから、サーヴィスでケーキが付くんだよ。ちゃんと受け取れる? あとコーラも、はい。左手動かせる? なんだ動くじゃない。でも、傷がくっつくまであんまり動かすと良くないって医師が言ってたし、あと一週間くらいは安静にしといた方がいいんだって。っても俺あんまり医師の英語聞き取れなかったから、だいたいそんな事言ってるんだ、って感じがしただけだけどさ。 ほら、チャンさん右手出してよ右手。ラップは剥いといたから、ケーキ。片手だけで食べられるでしょ。コーラはここのホルダーにかけとくからちゃんと飲んでね。ケーキ落としたりしちゃダメだよ。なんだ、このケーキ意外とうまいじゃん。チャンさんこのケーキココナツの味がしておいしいよ。食べてごらんよ。」 青年の言葉に反応し、私はラップを剥かれたパンケーキを右手で掴むと、青年の表情を確認してからケーキに噛みつきました。青年が言った通りに確かにおいしいケーキでた。私は何故このパンケーキがこんなにおいしいのか時間をかけてゆっくりと考えてみたいと思いました。それくらいそのケーキはおいしいものでした。私はそれから極力このパンケーキ以外の事は考えないようにして、バンコクに着くまでゆっくりと時間をかけて食べる事にしました。 「チャンさんってちゃんと食べるからいいよね。俺がチャンさんくらいの歳になったらチャンさんみたいにちゃんと食べられるかどうかわかんないもん。チャンさんほんとにえらいよ。そんだけ食べれるんだから傷もきっとすぐくっつくよ。」 私はタカシさんの言葉に頷いたような気がしましたが、実際には頷く動作は見せていないようでした。私は自分がどんな行動をとっているのか今ひとつ把握できていないようでした。タカシさんは数多くターミナル内を巡回しているタクシーの中からピンク色のタクシーを素早く停め、ドアを開けて私を先に乗せました。私のあとに乗り込んできたタカシさんに行き先を告げられて、車は走り出しました。運転手さんには何の迷いもありませんでした。運転手さんの半袖のシャツからのぞいている腕には虎の絵の刺青が掘ってありました。その虎は年賀状にでも書かれていそうなほど略画的で妙にリアルな虎でしたが、おそらく若い頃に彫ったものらしく、胴体が太くなっていて虎と言うより豚みたいでした。おそらく運転手さんが太ったためにそうなったのでしょう。私はハンドバッグから赤い色の一〇〇バーツ札を出して、タカシさんに渡しました。 「チャンさん、こんなにはいらないよたぶん。きっと四〇バーツくらいだからチャンさんは二〇バーツでいいよ。こんなに大きなお札出したら運転手さんきっとお釣りがないよ。」 私はタカシさんの手から戻された赤いお札を再び財布に入れて、新たに緑色の20バーツ札を出しました。走り出すとタクシーは川を越え、すぐに停まりました。距離が近かったせいか料金は四〇バーツでもいくらか多いようでした。タカシさんの手からいくつかのコインが私の手に渡されました。 車を降りて歩き始めると、通りは人が多くて歩きにくく、タカシさんが先を歩いて歩きやすいように道を作ってはくれていましが、それでもまだ歩きにくさを感じるほどでた。とにかく人の多い通りでした。 「チャンさん、まず宿をとんなきゃいけないから、どれくらいのサーヴィスと料金のところがいいか決めてもらいたいんだ、俺が選ぶと安いけど不便なとこになっちゃうからさ。チャンさんだったらお金の事は大丈夫だろうから、好きなとこを選んでくれればいいよ。」 私はタカシさんに向かって全身で、どこでもいい、という意志を発信しながら一軒のオープンカフェの前で立ち止まりました。そこは一階のカフェ以外の階が客室になっているようでした。 「そう、じゃあここにしようね。あんまりウロウロ歩きまわったりしたら、チャンさん、手の傷にも良くないだろうしね。ここにしよう。」 私のスポーツバッグを奪うように持つと、タカシさんはカフェ奥のレセプションまでさっさと歩いてゆきました。チェックインは名前を書いてパスポートを見せ、簡単なサインをするだけで、全てタカシさんがやってくれました。時間はほとんどかからず、すぐに済みました。 部屋に入るとタカシさんはまず私をベッドに座らせ、私の左手首に巻かれた包帯を解いてガーゼを取り替えはじめました。 「チャンさんこの宿あんまり高くないし、部屋だって悪くないじゃん。あ、動かないでまだ、消毒液塗るから。そうそう、凄いじゃないチャンさん、全然化膿してないし、もう治ってきてるみたいだよ。」 私はタカシさんに示されるがままに傷口を注意して見てみましたが、そこがどう治ってきているのかまったくわかりませんでした。その傷口は膿まれてから今のままの形でずっとそこにあったような感じさえしました。私はただ、手首に塗られている消毒液がひんやりと冷たくて気持ちがとってもいい、とだけ思っていました。 「とりあえず、下に降りて食事しようよ。チャンさんごはん食べなきゃ薬服めないでしょ」 タカシさんはそう言って私の右手を取り、一階のカフェまで連れていってくれました。タカシさんに手を引かれて降りる階段は、昇ってきた時よりも何故か時間的に長く感じました。 「この席がいいよ、風が良さそうだし、でも、この店いいよね。チャンさんもしかしてこの店最初から知ってたの?」 喋りながら席についたタカシさんに促されるまま私は椅子に座り、頸を横に振りました。頭はちゃんと動いたのですがタカシさんはその事に気付いていないようでした。 「チャンさん、何にする?」 タカシさんはメニューを手にしてそう聞いてきました。私はパラパラとタカシさんの手によってめくられてゆくページの中に心躍らされる文字を見つけ、その上に手を置きました。ページの間に私の右手が挟まれるような形になりました。タカシさんがゆっくりと私の手の上に被せてしまったページを開くと、私のひとさし指は、ステーキ、という五文字のところを指し示していました。私はステーキが食べたかったのです。タカシさんは私の指先を見て私が求めているものを確認すると、 「チャンさん、何? ステーキ食べんの? そんなもの昼間から食べて大丈夫?」 といって驚きました。私は何故タカシさんがステーキを昼間に食べる事を不自然に思っているのかが理解できませんでした。ステーキは昼に食べてもなんら不自然な事などない食べ物だと私は思っていました。 私は大きく深呼吸をしました。隣のテーブルにはビールのボトルが乗っていました。私はしばらくそのボトルを見つめました。ビールが飲みたい、と心から思っていました。 「何? チャンさんビール飲みたいの? ちょっとまずいんじゃない? 傷に良くないよたぶん。やめとけば?」 私はタカシさんに向かって力を込めた表情を作ってみました。ほとんど睨んでいるような気持ちでした。どうしても、ビールが飲みたい、という意志を伝えようと思っていたのです。 「わかったよ。飲みたいんならしようがないよね。ステーキと一緒に注文しとくよ。」 何とか私の意志は表情だけども通じるようでした。 タカシさんが注文してすぐ、ビールは運ばれて来ました。私はすかさずボトルを掴んで自分のグラスに注ごうとしましたが、手が震えてしまって、グラスの中は泡だらけになってしまいました。 「チャンさんダメだよ。こんなに泡が多くなっちゃったじゃない。手も震えちゃってるし、俺がやるよ。」 タカシさんはそう言って私からボトルとグラスを取り上げると、静かにビールを注ぎ直しました。タカシさんが注いでも泡の量はさして少なくはなりませんでした。 「あれ? おかしいなあ、冷えすぎかな? まあいいや、とりあえず、乾杯。」 私の右手は反射的にグラスを掴んでタカシさんの方に持ち上げていました。グラスはよく冷やされていました。理由はわかりませんでしたが、タカシさんの言う様に、冷え過ぎるとビールの泡というものは多く出るようになるのかもしれない、と少しだけ思いました。私はとにかく喉が乾いていました。全身の隅々まで余すことなくビールを求めていました。カンチャナブリから戻ってくるバスの中でコーラを一杯飲んで以来、私は全く水分を摂っていなかったのです。 右手を口元に運び、うっすらと水滴のつきはじめたグラスのふちを口唇に当て、私はビールをほとんど一気に喉に流し込みました。食道につららが刺さったような感じがしました。そしてその衝撃の後、私はこんなにビールをちゃんと飲んだのは、生まれてはじめてのような気がしました。 「すごくおいしそうに飲むねチャンさん。こんなにおいしそうにビール飲むひと初めて見たよ。アル中のひとみたいだね。」 タカシさんの冗談を含んだ言葉に、私は笑顔を作ってみようかどうか迷いましたが、顔の筋肉がうまく動かなくて笑顔は作れませんでした。このままアルコールが身体中にまわって来たら、私はどうなるのだろう、さらに身体が動かなくなるのだろうかと思うと、少し不安になりました。 「タカシ。」 背後から呼ぶ声がしたらしく、タカシさんが振り向きました。タカシさんの後ろには大きな男のひとがいました。 「ジェフ。どうしたの? まだバンコクにいたんだ。」 タカシさんはその大きな男のひとに向かって英語でそう言いました。 「突然いなくなるから、何処に行ったのかと思ったよ。」 男のひとは、白人でした。そのひとの英語は、少し聞き取りにくく感じました。私はたぶん、オーストラリア人だろう、と思いました。 彼と目が合うと私は何故か、手に持っていたグラスのビールを一気に飲み干してしまいました。酔っ払っている、という感じはしませんでした。頭も痛くありませんでしたが、ただ、他の事を考える余裕もなくなるほど、ビールは一口目と同じようにおいしく感じられました。 「ジェフ。こちらはチャンさん。」 「お前のおふくろさんか?」 「ちがうよ。」 「じゃあ、お婆ちゃんか?」 「違う違う。友達だよ。」 ジェフさんはタカシさんの言葉に首をかしげながら私の方に微笑んで見せ、 「はじめまして、ジェフです。ニュージーランドから来ました。」 と言って私に握手を求めてきました。私は、グラスから手を離して、着ているワンピース軽く掌の汗を拭ってからジェフさんの手を握り返しました。大きな手でした。手の甲には金色の毛がもっさりと生えていました。私は何か英語で挨拶しようと思いましたが、相変らず何ひとつとして言葉は出て来なかったので、ただ、会釈だけしておきました。 「チャンさんは、英語喋れないのかい?」 ジェフさんはタカシさんにそう聞きました。 「英語は大丈夫だし、日本語や、当然韓国語も喋れるけど、今はどの言葉も喋れないみたいなんだ。」 「チャンさんは韓国人なのか?」 「そうだ。」 「日本人かと思ったよ。今は、喋れない、っのはどういう事だ?」 「おとといまでは喋れたんだけどね。」 「何かあったのか?」 「いや、大した事じゃないんだけど、怪我して喋れなくなっちゃったんだ。」 「何てこった。」 「こっちの言う事はちゃんと聞き取れるから、一時的なものでそのうち直る、って医師も言ってるんだけどね。」 「怪我はひどかったのか?」 「いや、血がたくさん出ただけだ。輸血もしたし、食欲もあるみたいだからたぶん大丈夫だよ。」 肉汁がはじけ蒸発して、あたりの空気と混じり合い心をどこかに誘うような匂いをさせながら、私の目の前にステーキが運ばれて来ました。私は一刻も早く食べたかったので、タカシさんとジェフさんに会釈をすると、ナイフとフォークを手にしました。私は空腹でした。 「確かに食欲はあるみたいだから、大丈夫みたいだな。輸血ってのは、お前の血を輸血したのか?」 「そうだよ、血液型が同じだったからね。俺の血が入ったせいで、チャンさんは喋れなくなったのかもしれないね。」 タカシさんの前にも料理が運ばれて来ました。ブレイクファストセットでした。タカシさんは笑っていましたが、ジェフさんはタカシさんの冗談に対して笑うに笑えないような複雑な表情をしていました。もちろんタカシさんのその悪趣味な、センスのかけらもない冗談は私にとっても笑えるものではありませんでした。出会ってまだ何日もたたない私のために血を分けてくれ、カンチャナブリの病院から付き添い続けてくれたタカシさんには感謝することばかりでした。 「それじゃ、ちょっと用があるから行くけど、夜はあそこの宿のバルコニーにいるから。いつでも来てくれよ。」 ジェフさんはタカシさんに向かってそう言い、私の方に向かって微笑みました。私はそのジェフさんに対してナイフで肉を着る手を停めて微笑み返しました。何とかぎこちなくではありましたが、顔の筋肉は正常に動いたようでした。 「チャンさん凄いね。良く食べるねー。おいしい?」 私はタカシさんの言葉に対して頷こうとしましたが何故か頷くことができませんでした。ステーキの肉はとても固く、噛み切るのかなりのに力と時間を必要としました。 シャムの牛肉は固いよ、水牛の肉だから、と私は昔、誰かが私にそう言った事を思い出しましたが、その言葉をいつ、誰が言ったのかは思い出せませんでした。 「チャンさん、ビール飲むでしょまだ。」 私は頷き、コップをタカシさんの方に傾けてビールを注いでもらいました。ボトルがグラスのふちから離れる瞬間に、牛肉に関する記憶が甦ってきました。あの日本兵でした。その人はとてもいいひとでした。その兵隊さんは上官に見つからないように自分たちのために用意された水牛の肉をこっそりと焼いて私たちのいる小屋へ持ってきてくれたのでした。 あのときの兵隊さんは、おそらく今のタカシさんと同じくらいの歳だったのでしょう。ふと、私はあの兵隊さんがどうしているのか気になりはじめました。あれから五〇年近くが経ってしまっているけど、何もなければおそらく日本のどこかで生きている事でしょう。子供や孫に囲まれて安らかに日々を過ごしているかもしれません。もし、サックを使ってなかったら、私があの兵隊さんの子供を見に宿す可能性だってあったわけです。私は、別段その兵隊さんの子供を産みたい、と思っていたわけではありませんでしたが、今となってはなんとなくあんなにうれしそうな顔をして私たちがいた小屋に焼いた肉を持って来てくれたやさしい男のひとと一緒になれたなら、私もまた違った人生が歩めたような気もします。 「なにやってんの?タカシ。」 女の子の声がしました。言葉は日本語でした。 「おお、お前こそ何やってんだよ。」 「あたしはずっとこっちにいたわよ。」 「じゃあ全然バンコクから出てないんだ、あれから。」 「ずっといるわよー。なんだかぁ、動きたくなくってさぁ。」 私は、タカシさんに話しかけてきた日本人の女の子を見て、産めなくなる前にひとりくらい産むどくべきだったかな、とあらためて思いました。 「あ、この人、チャンさん。」 「こんにちわあ、韓国の人?」 私は女の子に対して頷こうとしたのですが、なぜか固い笑顔を作っただけで頷くことができませんでした。あの時の私は、この目の前にいる女の子くらいの歳だったのだろうかと考えていたのでした。 「うんそう、俺の友達、ガールフレンド。」 タカシさんが女の子にそう答えて、私は噛み切れなかった肉をビールで喉の奥に流し込みました。続けて何度も強く噛み過ぎたせいか、顎の筋肉が痛くなっていました。しかし、その筋肉の痛みによって頭がはっきりしてきたような気もしました。こめかみがぱんぱんに張っていました。 「それで、いつまでこっちにいんの?」 「まぁ、お金がなくなったらぁ、しょうがないから日本に帰るつもりだけど。で、そっちこそいつまでいんのよ。もし良かったらあたしと一緒に一週間くらい南のビーチの方に行かない?」 タカシさんは女の子の言葉を聞いて、私の方を少しだけ見ると、すぐに視線を戻して女の子の方を見ました。私を気にしているようでした。私はどうしてタカシさんが私の方を気にするのか、その理由がよくわかりませんでした。よくよく考えてみれば私といる事によって一人で気ままに旅行していたタカシさんの行動が制約されてしまっている事は確かでした。私はタカシさんに悪い事をしているような気持ちになりました。 「うん、考えとくよ。ここの三〇四号室に泊まっているから、今度来てよまた。」 タカシさんがそう言うと、女の子はじゃあまた、といって去ってゆきました。通りの人の中に混ざり埋もれて姿が確認できなくなるまで時間はそんなにかかりませんでした。 ステーキはどこまで食べてもあくまで噛み下しにくい代物で、ナイフで細かく切るのにも苦労するほどでした。付いて来たサラダは野菜自体に苦みがあり、とてもおいしく感じられました。野菜は本来苦いものなのだ、とあらためて私は思いました。 「チャンさん、全部飲んじゃいなよ。」 タカシさんがそう言って私のグラスに残りのビールを全部注ぎました。私はグラス半分くらいまでを一息に飲みました。残りの半分は、ステーキを食べてから飲もうと思っていました。今なら何杯でもビールが飲めるような気がしました。 タカシさんは一枚目のパンに目玉焼を乗せて口の中に入れているところでした。知り合いに相次いで声をかけられたために、タカシさんはまだぜんぜんブレイクファストセットに手をつけていなかったのでした。 「やっと食べられるよ。でも、この店なんで夕方になってもブレイクファストセットが食べられるんだろうね。」 私はそう言えばそうだと思い、頷いて微笑み返しました。 タカシさんがようやく二枚目のパンにハムを乗せて食べはじめた頃、私はもうステーキを全て食べ終えてしまっていました。グラスに少しだけ残しておいたビールを飲み干すと、私はハンドバックからメモを出して、少し散歩をしてきます、と書いてタカシさんに渡しました。食事の途中に一人だけ席を立つのは失礼かとも思いましたが、タカシさんにはゆっくり一人で食事させてあげた方がいいような気がしました。 声を出してその事を伝えようと思えばできない事はないような気がしましたが、まだなんとなく出そうとしても出ないような気がしました。おそらくそう言う状態が医師が行った失語症という状態なのだろうと思います。タカシさんは、 「そう。それならずっと部屋にいるからあんまり遠くには行かないようにね。七時過ぎる前までに戻ってきてくれればいいから。このへんでもブラブラして、ゆっくりしてくればいいよ。」 と少しだけトーストを口の中でもごもごさせながら言いました。 私はタカシさんの言葉にただ頷いて立ち上がり、財布からビールとステーキの文のお金を出してテーブルの上に置き、カフェを出ました。 夕方の通りは昼間に比べてさらに人が多くなっているようでした。通りや通りに面した日背にいる人達の中でも特に目立ったのは日本人の若いひとたちでした。あちこちオープンカフェから、聞こうとしなくてもいろいろな言葉が聞こえてきました。 私は日本語と英語をその雑音の群れの中からひろい出そうと聴覚を集中させました。 ――ノブのやつあれからすっかりパッポンにハマッちゃって、五日連続で同じ女買ったらしいぜスゲーよなぁ。性欲もすげぇけど、学校から奨学金もらって勉強している立場でそんな事するってのがすごいよ。 ――テリーはクンサーのエージェントにコンタクトを取って、ビルマ国境の村まで行けたんだけど、私設軍隊のガードがきつくて結局、クンサーには会えずじまいだったみたいだ。やっぱり、アメリカ人ジャーナリストはすごく警戒されているらしいよ。 当然、それぞれの人が喋っている事は、私にとってそれぞれに何の関連もなく、脈絡もない話でしかありませんでした。私はそれぞれの話に関連性や脈絡を見い出そうとしましたがやがてあきらめました。関係のない話は関係のない話にすぎず、そんなものに意識を集中させる作業はただ単に疲れるだけでした。そういった風に雑音の集合体をひとつひとつ分解して言葉として聞きわけるよりも、ただひとつの音として音楽のように聞くほうが数倍、気楽で楽しいように思えました。私はそのまま一度、通りの終わりにある警察署まで歩いてゆき、警察署の正面で折り返してまた通りに戻って来て最初に右手のほうに見えたカフェに入りました。まだ薬を服んでいなかった事を思い出したと同時に、ものすごくコーヒーが飲みたい、と思ったからでした。 「何にします?」 ウエイトレスにそう聞かれて、私は声を出してみようと思いました。 「コーヒーを。」 声はあっさりと出ました。拍子抜けするほどでした。病院のベッドの上で目覚めてからどうしても言葉が口から音声となって出て来なかったのがウソみたいでした。 ――もう軍隊には二度と行かなくていいんだから、会社に入るまで楽しまなきゃ、と思ってタイに来たんだ。 タブレットを四錠、口の中に放り込んだ瞬間、背後からハングルが聞こえました。私は声を出すことができた直後でも自分の聴覚が 全く正常なのが不思議でした。喋れないときと喋れるときの聞こえ方が全く同じなのがなんとなく信じ難いような気がしました。 ――やっぱりさ、大きな企業に入りたいよなぁ、サムスンとか、ヒュンダイとかああいうとこに。 私の後ろでハングルを喋っているのは若い韓国の男のひとのようでした。私は振り返って話しかけてみようかとも思いましたが結局やめました。自分から知らない他人に向かって言葉を発するのはまだ怖かったのです。 私はハンドバックからボールペンを出して、テーブルに置かれていたピンク色のナプキンを一枚取り、ザイログ社の八ビットCPU用のアセンブラ言語で乱数を発生させるプログラムを書いて、それを十六進数の機械語に変換してみました。自分の頭がちゃんと働くかどうかチェックしてみるつもりでした。 あっさりとプログラムは完成しました。そしてなおかつ、何度チェックしてみてもそのプログラム中にミスはありませんでした。完璧でした。 私は目の前にある十六進数で埋められたナプキンを見ながら、なぜ私はおとといの晩、手首など切ったのだろう、と思いました。あの時の私はただ、全てを消去したい、と思っていました。五十年近くも経って再び訪れたカンチャナブリで、これまでの私が生きてきた時間がもの凄く無意味なものに感じられて、本気で、今までの全てをなくしてしまいたい、と思ったのでした。 私はハンドバッグを探ってみました。煙草が入っている筈でした。ビールの酔いはまだ少し残っていました。ガスライターで火を点けて大きく煙を吸い込むと、すごく煙草がおいしく感じられました。おとといの晩に、手首にかみそりを当てていた時には、こんなにおいしく煙草を吸いながらコーヒーが飲めるくつろいだ時間が再びやってくるとは夢にも思ってませんでした。 「おひとりですか? おばあさん。」 そのまま何も考える事がなくなって、ボーッとしようかと思っていた私に声をかけて来たのは日本人の女の子でした。 「はい、そうです。」 私は迷う事なくそう答えました。言葉は何の障害もなく出て来ました。喋れなくなる前よりも日本語の発音が正確になったような気がしました。 「ごいっしょしてもいいですか?」 「どうぞ」 私の言葉を受けて女の子は私の真向いに座りました。 「ひとりで旅行されてるんですか?」 ウエイトレスにレモンシェイクを注文した後、彼女は聞いてきました。 「今、男のひとといっしょにいますけど、まぁ、ひとりみたいなもんです。」 「じゃあ、だんなさんと来てるんですか? 素敵ですね。」 「いえ、日本人の男の子がいっしょにいてくれるんです。」 私に質問する時の、少し考えるような仕草に特徴のある、とても可愛いい女の子でした。肩くらいまで伸びた髪には小さい波のようなパーマネントがかけられていました。私の言葉に対して、女の子はまだきょとん、としたまま考えているようでした。 「私は韓国人なんです。」 私はそういってみました。女の子はただ、普通に興味がある、といった表情に変わりました。悪意も、恐れもその表情にはなく、純粋な好奇心だけがありました。 「男の子っていくつくらいの子なんですか?その子。」 女の子は聞きました。 「たぶん二十歳くらいです。」 「うわぁ、おばあさんそんなに若い子と部屋、シェアしてるんだぁ。」 「シェアしていると言っても、もちろんベッドが二つある部屋ですよ。いろいろと面倒見てもらってるんです。 私は女の子が言った『シェア』という英語の意味あり気な響きに年甲斐もなく照れました。自分の顔が赫くなっていないかどうか気になりました。私はコーヒーカップを手に取り、カップ三分の一くらいの量を一口で飲みました。 「お嬢さんは、おひとりですか?」 私は自分だけが照れている今の状況が、とても理不尽に思えたので、話題の矛先を女の子の方に変えてみることにしました。 「はい。」 女の子は動じる事なくあっさりと答えました。 「バンコクは、もう長いんですか?」 「まだ一週間くらいですけど、少し長くいてボクシングを見ようと思ってるんです。」 「ボクシング、好きですか?」 「ええ、好きです。」 私は女の子と共通の話題が見つかったようで嬉しかった。戦争が終わってから韓国に戻って家にいる事が多かった私の唯一の娯楽がボクシング観戦だったからでした。私は何十年間も映画を見ることや外で食事したりする事は全くといっていいほどなかったのですが、最低月に一度はボクシングを見るために外出していました。張正九も柳明佑もデビューしたばかりの頃から生で試合を見てきたものでした。女の子にいろいろとボクシングの事を聞いてみようかとも思いましたが、女の子が好きなのはタイ式のボクシングである可能性もあり、そうなると私はタイ式ボクシングについてはあまり知識がなかったのでこれ以上話の展開をあれこれと考えてみる事はやめて、「ボクシングの、どこが好きですか?」 とだけ聞いてみました。私が飲んでいたコーヒーはいつの間にかすっかり冷めて量も少なくなってしまっていました。私はウェイトレスを呼んでコーヒーを追加注文しました。ビールの酔いもかなり醒めはじめて来たようで、コーヒーを飲む事がすごく楽しい事のように思えました。 「勝ち負けが、はっきりするとこ。」 女の子は私の質問に即答しました。それは、私がボクシングを好きな理由と全く同じでした。私は驚いてどうしようかと考えたあげく、煙草に火を点けて、 「私もそうなの。」 と答えました。答えと一緒に煙草の煙が口から踊り出ました。勝ち負けがはっきりするという事は、私にとって目標がはっきりすると言うことと同じでした。これまでの私は毎日の生活の中で目標を定めて、それに勝つために英語や日本語や数学、コンピュータ言語などを学ぶための時間を作ってきました。そしてその合い間にボクシングの試合を見ると、自分のやらなければならない事や、やりたい事がはっきりして元気が出ました。リングの上で戦うボクサー達にはそれがはっきりしていて、見ているだけで自分も何となく頑張らなければないように思えたものでした。やりたくても出来ない事は、本当にやりたい事ではないと思えば、いつもやりたい事がはっきりしている状態でいられたので、何をやっても楽しくてしようがありませんでした。 ただ、そうして積み重ねたものがおとといのように何ひとつ意味をなさないものなのではないか、と思えてやり切れない気持ちになる事がたまにありました。おそらくそれは、私に両親がいなかったり結婚していなかったり、友人がほとんどいなかったりした事も関係しているのかもしれません。 考えてみれば私が時間を作って積み重ねてきたものの全ては、私の内側に見えない形でしか残っていなく、目に見える形で残っているものは少ないような気がしました。 「こっちでもう何度か見に行ったんですか?ボクシング。」 私は聞いてみました。女の子は日本を離れていまここにいることが凄く幸せそうな感じがしました。 「たまにですけど、明日は恋人が試合に出るからまた見に行くんです。いまも練習してきたばかりなんですよ。」 「練習、ってボクシングやるのあなた?」 そう言って良く見てみると女の子の髪は少し湿っていたし、両拳のひとさし指と中指のつけ根のところは紅でもさしたように赤くなっていました。 「はい、ここのすぐ近くのジムで。」 「日本でもやってるんですか?」 「いえ、恋人の練習を見るためにジムに通っているうちになんとなく私も練習するようになったんです。 「面白いですか? 練習。」 「面白いですよぉ。ものを殴ったり蹴ったりするのがあんなに難しくて頭を使うんだってこと、やってみるまで私、わかんなかった。」 「面白そうですね。」 「おばあちゃんもやってみたら?」 「無理よ、体が動かないわ。」 笑って答えながら私は、昔よりは動かなくなってはいるけれど、もしかすると私の身体は机やコンピュータの前に長く座っていたから動く事に慣れてはいないだけで、動かしはじめると自分で思っているよりは動くのかもしれません。これまで更年期の時に少し関節がおかしく感じた以外は、私の身体にこれといった異常はありませんでした。 女の子は喉が乾いていたらしく、かなりのスピードでレモンシェイクを吸い込んでいました。ストローを咥えている様子がとても可愛らしく、おいしそうでした。私は運動らしい運動なんてよくよく考えてみれば戦争が終わってからまともにした事がないような気がしました。 「チャンさん、何をしているんですか?」 背後から聞こえた声は男のもので、聞き覚えのある英語でした。その男のひとは背後からまわり込むように私の斜め前に移動して来ました。男のひとの顔の真ん中には高い鼻がついていて、その鼻の穴からは金色の鼻毛が何本か毛先を見せていました。ジェフさんでした。 「ここに座ってもいいですか?」 ジェフさんはまず私にそう聞き、女の子に目線で許可を求めるような仕草をしました。 「いいですよ。もちろん。」 私がどう答えたものか迷っていると、女の子はそう返事をしてジェフさんに座るように促しました。決断の早い、利発なお嬢さんだと私は思いました。ジェフさんはうれしそうに席につくと、 「私の名前はジェフといいます。初めまして。」 といいました。 「私の名前は、ねこ、です。」 女の子はそう自己紹介しました。英語の中に『ねこ』という言葉が入ると、私にはそれが不思議なことにごくあたり前にどこにでもある日本の女の子の名前のように感じました。「ねこ、ってどういう字?」 私は聞いてみました。 「根っ子の根に子供の子です。」 そう言われて私はまだねこちゃんに自己紹介していなかった事に気付いて、慌てて自己紹介しました。ジェフさんは座って大人しく私とねこちゃんの日本語でのやりとりを聞いてはいましたがちらちらとねこちゃんの方を見ていて、私よりもねこちゃんの方に興味があるのは明らかでした。まぁ、当然といえば当然でしょう。 「タカシはどうしてるんですか?」 「部屋にいます。食事したら少し眠くなったみたいです。」 私はジェフさんに適当な事を言って答えて おきました。 「チャンさん、英語上手いんですね。」 ねこちゃんがそう言い、ジェフさんはねこちゃんが言った日本語の意味をこの場の雰囲からつかもうと注意を働かせているようでした。 「それほどでもないわ。」 「そんなことないですよ。」 とねこちゃんは日本語で言った後、 「チャンさん英語上手いわよねぇ。」 と英語で隣のジェフさんに向かって言葉を続けました。 「でも喋れない、って聞いてたから少し心配してたんだけど、喋れるようになって良かったですね。」 ジェフさんにそう言われて私は、ついさっきまで自分が言葉を喋れなかった事を重い出しました。よくよく考えてみればさっきと分とでは私の置かれた状況は他人から見てみれば全く別の人間ほどの違いがありました。喋れると喋れないとでは、これほどまでまわりの反応が違ってくるのか、と私は思いました。 「ついさっき、声を出したら喋れるようになったみたい。たぶん、精神的な問題だったんだと思います。」 「チャンさんさっき迄英語喋れなかったの?」 ねこちゃんが口を挟みました。私はその言葉が可笑しくて笑い、 「根子は私がさっきまで英語が喋れなかったのだと思ったらしいわ。」 とジェフさんに伝えました。ジェフさんもねこちゃんの聞き違いが面白かったらしく、声を出して笑い、ねこちゃんがひとりだけ会話の流れを掴めないままきょとん、としていました。 ジェフさんがねこちゃんに対して興味を持っているのは当然のようにわかってはいましたが、ジェフさんはあからさまにそれを態度に出す事はなく、あくまで紳士的で、齢上の私に対する敬意を忘れてはいませんでした。私は二人の私にたいするあしらいを妙に心地よく感じていました。いまここにこうして三人でいるこの場所の空気は、自ら死のうとした私に血まで分けてくれたタカシさんと二人だけでいるときのものとは明らかに違う、と私は思いました。 「根子はもうどれくらいバンコクにいるの?」 「ひみつ。」 「どうして?」 「ながいから?」 「二十年くらい?」 「それじゃ私、まだ生まれてないわ。」 「今、いくつなの?」 「十六。」 「ウソだろ? 信じられない。」 「ホントよ。」 「十二歳くらいにしか見えないよ。」 ジェフさんとねこちゃんの漫才のような会話を黙って聞いていた私は、その会話に混ざりたくなって、 「ホントはいくつなの?」 と英語で聞いてみました。 「ホントに十六なんです。」 ねこちゃんは日本語でそう答え、Tシャツの下に巻いていたウェストポーチの中からパスポートを出して私に見せました。本当に十六歳でした。ジェフさんが覗き込むようにしてパスポートを見ていましたが、本当だとわかると声をあげて驚きました。 「チャンさんはおいくつなんですか?」 ジェフさんから戻されたパスポートをTシャツの下にしまって、ねこちゃんは私に聞きました。 「忘れちゃった。」 私がそう答えると二人は私が忘れたフリをしていると思ったらしく、顔を見合わせて声もなく笑い合いました。が、しかし私は忘れたフリなんかはしていませんでした。本当に自分の年齢が思い出せずにいたのでした。 私は一体何歳なのでしょう? そう考えかけて私はすぐに考える事をやめました。そして、 「歳をとると色んな事を忘れちゃうものなのよ。」 と言っておきました。 「自分の歳を忘れる、って感じ、私には理解出来ないなぁ。」 ねこちゃんがそう言うとジェフさんは、 「でも毎年誕生日が来てしばらくのあいだは新しい年齢に慣れないじゃない。そんな感じに似ているんじゃないの?」 と言って私が新しく点けた煙草の煙に誘発されたように自分の胸ポケットから煙草を出して火を点けました。パッケージには日の丸の形が見えました。ラッキーストライクのようでした。ねこちゃんはジェフさんの英語がうまく理解できていなかったようなので、私が日本語に訳して伝えてあげました。 「あなたたちも、歳をとればわかるようになるわよきっと。」 私はそうは言ったものの実のところは私以外の老いた人たちがどういう風に年を重ねていって、過ぎ去ってしまったその時間に対してどういった気持ちを抱いているかなど全くわかりませんでした。ただ、皆が私と同じような感じなのかもしれない、と思うだけで、特に他のひとたちに聞いてみた事もありませんでした。私には友人が全くといっていいほどいなかったので私以外の人の考え方を知るチャンスなどほとんどなかったのでした。 ただ、私にとって積み重ねていった時間や経験がおとといのカンチャナブリですごく重く感じられたのは確かでした。時間や経験の質や量にかかわらず、重ねていったものは確実に重くなるものなのでしょう。 ジェフさんの提案で私たち三人は食事に行くことになりました。ステーキを食べたばかりだと うのに私のお腹は空腹に近い状態でした。自分でも不思議だと思うほど強い空腹感がありました。私は胃に血液が集中してゆくあの満腹感を再び激しく求めはじめていました。 「揚げものは食べられますか?」 ジェフさんの問いかけに私はすぐ頷きました。ねこちゃんも大丈夫なようで私と同じように頷きました。 「イスラエル料理を食べに行きましょう。」 「それって、どんな料理?」 ねこちゃんが質問しました。 「揚げた料理だよ。鶏とか、魚とかのフライがメインだね。」 ジェフさんは私とねこちゃんの顔を交互に見ながらそう説明しました。まるで私が鶏でねこちゃんが魚であり、これから君たちをフライにするんだよ、と説明しているような動作でした。 私たちはカフェのお勘定を済ませて、ジェフさんに導かれるまま歩いてゆきました。ジェフさんは私を気使ってか、ゆっくりと歩いてくれているようでした。 「チャンさん、イスラエル料理って食べたことあります?」 ねこちゃんが英語で私にそう聞きました。おそらく前を歩くジェフさんにもわかるようにそうしているのでしょう。私は、 「ありません。」 とねこちゃんと同じように英語で答えました。私たちの会話を聞いていたジェフさんは振り向くと、 「チャンさんはさっき食べたばかりだから食べられなくて残念だけど店の場所だけでも覚えておけば、次にタカシと一緒に食べにくればいいさ。」 と言いました。ジェフさんは私がどんなに空腹なのかもちろん知りません。当然と言えば当然の事でしょう。きっと知ったら驚くだろうな、と思いました。 私は初めて食べる料理を若い男の人に案内されてついて行っているという今の状況を楽しく感じていましたし、ねこちゃんと一緒に歩くのも新鮮な感じがしました。 イスラエル料理は油濃さを感じたけれども、添えられていたピクルスや独特のタレがあっさりしていた分、とてもおいしいものでした。マクドナルドとか、ケンタッキーフライドチキンなどのファーストフードの原点のような味に思えて私は、やっぱりこういったファーストフードというものはユダヤ人が考えたのだろうな、と思いました。 ジェフさんももしかしたら、ユダヤ系のニュージーランド陣なのかもしれません。相変わらず紳士的なジェフさんのあしらいや、口唇のまわりを油で光らせながらフライを食べるねこちゃんの仕草を見ているのはとても楽しく、私は若い二人以上にたくさん食べました。ジェフさんは私を見て思っていた通りに人間ではないけだものを見るような眼で私に向かって、アジアの神秘だ、と呟きました。 私は、こんな風に楽しい時間を重ねて歳を取ってゆけるのなら、ねこちゃんやジェフさんはこれから私よりも長い時間をかけて楽しい記憶を作ってゆけるのだろうな、と思いました。 これから少しビールを飲みにゆくという二人と店の前で別れて私は一人で宿に戻る事にしました。一緒にビールを飲みたい気持ちもありましたが、時間はもうすでに午後八時近くで、これ以上遅くなるとタカシさんが心配すると思いました。ねこちゃんとは明日、一緒にお昼を食べに行ってジムを見学した後、試合を見に行く約束をしました。それ以外の予定はたてていませんからまた、今夜のように空いた余分な時間を二人で楽しくつぶしてゆく事になるでしょう。ジェフさんは疲れているからタイ式マッサージを受けに行くそうで、そのうちまた私とタカシさんが泊まっている宿の方に顔を出すとの事でした。 一人で歩きながら、私はとても楽しい気分でした。これからジェフさんがねこちゃんを口説く状況をあれこれと想像するのが楽しかったのです。ジェフさんはねこちゃんにボクサーの恋人がいる事を知らされてがっかりする事になるでしょう。 あと何年かはわかりませんが、もし、私がこれから少しまとまった時間を生きてゆけるとするなら、死ぬときには今日までの一週間を思い出して有意義で楽しい暇潰しが出来たと思う事でしょう。おとといの、手首にかみそりを当てていた瞬間の、重く暗い気分なども、今日会ったジェフさんやねこちゃんと話した事や、ビールやイスラエル料理の味などに掻き消されてしまうような気がしました。おとといからの私の時間にはこれまでとは違ったはっきりした波がありました。それは今まで何十年もなかったような波でした。この土地から船に乗せられてあわただしく引き揚げていった時以来の波だったような気もします。カンチャナブリで日本の兵隊さん達に抱かれていた時や、韓国に戻って閉じこもるように毎日勉強を続けていた時にもそんな波はなかったような気がします。ただ、重ねていった時間の分だけお金やお仕事の結果が残っていっただけけでした。 あの頃の私は、明日がどのような一日になるかだいたい想像がつきましたし、実際に想像した通りの一日がやって来ました。それは週単位でも月単位でも年単位でも同じ事で、私にとって時間というものはその長さにかかわらずただの時間でしかありませんでした。私にとって問題だったのはその時間の中で自分が何をするかだけでした。私は私にしかわからない方法で、他の誰と関わる事もなく時間を使っていたに過ぎませんでした。そうやって過ごして来た何十年もの間、辛いと思った事もありませんし、その代わりそう楽しいと思った事もありません。もしかしたら私は、辛くなる事と同じように楽しくなる事が怖かったのかもしれません。 私は今日、私に与えられた全ての時間というものは所詮、死ぬまでの暇潰しにしかすぎないと言う事に気付きました。暇潰しなのだから、自分がやりたい、と思うような事をするだけではなく、他のひとといっしょに楽しく過ごしてもいっこうにかまわないわけです。そして、全ての時間が終わる時に、いい暇潰しが出来て良かった、と思えればそれで充分だし、そう思えなくても所詮暇潰しなのですからかまわない、と思えばまあなんとか納得がいくことでしょう。 苛立つように明滅し、通りに色を添えはじめたネオンの下をくぐるように歩きながら私は自分の帰るべき宿を探り出し、アルコール飲料が導き出すぼんやりとした雰囲気に包まれはじめたその中を奥に向かって脇目もふらず歩いてゆきました。タカシさんに手を引かれて降りた時よりもさらに距離が短くなったように感じられる階段を上がると、胃がぱんぱんに張っていたせいか少し立ちくらみがしました。私はタカシさんから預けられていた鍵で部屋のドアを開けました。ノックする事を忘れていました。立ちくらみの直後で頭がくらくらしていたし、タカシさんに喋れるようになった事を知られるのも何となく気恥かしいような気がしていたからでした。 ドアの奥には、タカシさんだけでなく、明らかに複数の人がいる気配がしました。物と物がやさしく擦れあう微かな音もしました。私は大きく開きかけたドアを少しだけ開いた状態に戻すと、部屋の中に入る事も出来ずに廊下に立って中のようすをうかがう形になりました。ドアの隙間に眼を近付けるとほとんど暗がりの中に浮かび上がったタカシさんは上半身裸の状態で、その上半身自体が青白く光を持っているように思えました。タカシさんは二つ並んだ奥の方のベッドに座っていましたが、そのタカシさんと一緒にベッドに腰掛けて蠢いているなだらかな曲線を持ったもう一人の肌はタカシさんよりもさらに青白く光っているようでした。それは下のカフェで私がステーキを食べていた時にタカシさんに話しかけてきた女の子でした。 「ねぇ、お婆ちゃんが戻ってきたらどうするのよ。」 「もちろん、堂々と続ける。」 「ウソ?」 「ウソウソ。すぐ服を着れば大丈夫だよ。」 今にも途切れそうな二人の会話が細いドアの隙間から流れてきました。それは吐息のような言葉であり、言葉のような吐息であるような気がしました。女の子の身体を抱えるようにして、まだ完全には脱がされていないシャツのボタンをもどかしげに探っているタカシさんはとても真剣な表情をしていて、いつも私にやさしくしてくれるタカシさんとは全く違う人のように思えました。 私は五十年近く前にカンチャナブリの小屋で私を抱いた兵隊さんたちを思い出しました。普段私たちに優しい兵隊さんも、そうでない兵隊さんも私を抱いている時には皆、今のタカシさんと同じように真剣な顔をしていました。だからあの時の私は、どの兵隊さんに抱かれている時もいつも同じような気持ちでした。私はあの時には何も考えようとはしていなかったのです。 私はしばらくドアを開ける事も閉める事も出来ずに揺れるようにリズミカルに動きはじめた二人の身体をドアの隙間からそっと見ていました。二人は全く私に気付いていなくて、楽しそう、と言うよりも一生懸命行為に没頭しているようで、それでいてどことなく滑稽でもありました。 私はそれだけ一生懸命に誰かと何かをすると言う事はきっと楽しい事なのだろうな、と思いました。 私は左手首に巻かれた包帯がじんわりと湿っているのを感じました。気がつくと全身に汗をかいていました。身体中がベトベトしました。私は今日、今この瞬間がこの国に来て一番暑く感じましたし、これまでこんなにたくさん汗をかいた事などなかったような気さえしました。 胸の鼓動が高鳴ってゆくにつれて、左手首の傷口が心臓になったように激しく脈打ちはじめました。私はそのリズムを感じながら、いつまでかはわからないけれど、これからもしばらくは私の身体の内部で血液が流れめぐるのだと思いました。 奥のベッドで身体を合わせたまま揺れている二人は、まるで私を導いているかのように私の心音をその動きのリズムに同調させつづけていました。私は二人に気付かれないようにゆっくり静かにドアを閉め、階段前の踊り場で煙草に火を点けました。とりあえず、間を置いてからノックしてみよう、とか、気を落ちつかせよう、とか色々といっぺんにいろんな事を考えながら火を点けた煙草でしたが、一口煙を吸い込んだ途端にそんな色々なことは、あふれだすように頭から零れ落ちてしまい。ニコチンが身体の中をめぐってゆく安らかな感覚が広がってゆくだけでした。 |
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