仄かな言葉
白石昇 |
裾の長い制服に足を通そうとした瞬間、わたしは鈍痛と共に内股を伝い降りてゆく生暖かい感触を認識した。わたしは最初、下腹部に感じたその鈍い痛みをただの食あたりか何かから来るものだと思った。
わたしは内股を触ってみた。でも、手に感じた軽いぬめりを持った暖かい液体は、明らかに直腸からもたらされたものではなかった。 わたしは知らなかった。なにも知らなかった。なにが起こったのか、わけがわからなかった。わたしは大きな声を出しておかあさんを呼んだはずだった。だが、わたしのその声は全くわたしには聴こえなかった。 おかあさんは、十五歳になるまでその、わたしの身に起こってしまった身体の変化についてこれまでなにひとつ教えてはくれなかった。学校で教えるものだと思っていたのかもしれなかった。
あまりにも幼かったのでもうほとんど記憶にはないが、白内障で光を失ったときのわたしは、いまよりももっと、手に負えないほど混乱した、とおかあさんはまだわたしが空気の細かい振動を鼓膜で関知していたほんの少し前まで言っていたし、聴こえなくなってからはわたしの掌に書いた。
おかあさんに連れられていった病院らしき場所では、わたしの耳が聴こえなくなった原因ははっきりしないらしかった。たとえはっきりしたとしても、手術とか、施薬とかの即物的な治療を受けることによって完治する、といった種類のものではないだろう。それは何となくだがそういう状況になったわたし自身が一番よくわかっていた。 わたしは、とりあえずいろいろなものを触ってみることにした。音声に頼ることなく身の回りにあるものを認識できるようになる必要があったからだった。
わたしは身の回りのありとあらゆるものを触り、嗅ぐ事によって新しく認識しなおしていった。わたしの皮膚は温度や堅さに敏感になった。特に指先はまるで、わたしを導く孤独な案内人だった。
わたしはわたしが持つ機能を最大限に使って、身の周りにあるほんのささやかなことだけ把握できれば、それだけで良いと思っていた。それ以上のことは求めようと思わなかったし、求めても無駄なことは最初からわかっていた。 わたしは学校を変わることになった。変えなければならなかった。光どころか音声まで感じられなくなったわたしが勉強できる場所は限られていたからだった。
耳が聞こえていた頃にはよく、科学者になりたい、と思った。科学的な原理や法則は、曖昧なところがない、わたしは曖昧でない事についてじっくりと考えることができたらいいと思っていた。音声を感じることさえできればまだ、講義や授業は聴くことができるし、かなりの知識を蓄積することもできる。わたしにとっての問題は使える器官や機能の数ではなく、その限られたものの使い方だった。しかし、それにも限度があった。器官や機能を限定される、ということは、知識を吸収するための媒体を制限されると言うことだった。わたしは科学者になりたい、という気持ちを封印する気はなかったが、その事については極力考えないようにした。考えない方が楽だった。 転校することになったのも、授業を聴くことができなくなったせいだった。今までと同じ方法で同じ媒体を使って知識を吸収できなくなった以上、それはしようがないことだった。 新しい学校は家からかなり離れているらしかった。そこに決めた理由は少しでもわたしの土地勘のある場所がいいから、というおかあさんの提案によるものだった。新しい学校は親戚の家の近くにあった。最初の一週間は電車におかあさんと二人で乗って鶴橋駅まで行き、その近所にある親戚のおばさんに手を曳かれて学校へ行った。
三日後、どうしてもひとりで行く、というわたしの意見を何とか聞き入れたおかあさんが、しばらくの間はこっそりとわたしの後をついてくることは容易に想像できた。実際、わたしが家を出ると、背後から家のドアを開閉する微かな風を感じた。 わたしはひとりで家の前に立つとまず、右手に持ったステッキを地面の上で派手に振り回した。 ずっと昔に先生から教わった事をあらためて繰り返してみる。当然、地面にステッキが当たる音は聞こえなかった。先生、っていうのは一体何の先生だったのだろう、とわたしは堅いアスファルトの地面でステッキを弾ませながらふと思う。まだ小さい頃、週に何度か家に来て、目が見えないわたしに光や色に依存することなく身の回りの状況を知るための技術を教えてくれたその人の顔や名前を、わたしはもう思い出せなくなっていた。
わたしはゆっくりと道の何処に何があるかをステッキの感触で確認しながら、野田阪神駅まで歩いた。時間がかかるのは承知の上で、いつもより一時間半前に家を出た。おかあさんの気配は、わたしの背後で現れたり消えたりしていたが、わたしは、おかあさんははじめからいないものと考え、今、自分が置かれている状況を把握することに意識を集中させた。 野田阪神駅に着いてわたしは、まだ朝早く、地面に独特の湿度が感じられない駅の床面を叩きながら券売機に行き着いた。
ふと、かなり明るくなってきた朝の日差しに意識を移す。あまりにも日差しが強くて、網膜が赤くチカチカする時には着けるが、わたしは普段サングラスは着けないことにしていた。それは、少しでも赤っぽい光を感じることができるわたしの網膜の感覚を大事にしたかったからだった。もし今後、わたしの視神経が、光が感じられなくなるのだとしたら、それが完全に暗黒の世界に埋没してしまうまで、わたしは少しでも、光の残滓を感じていたかった。 電車がホームに入るタイミングは、
わたしがステッキを弾ませながらホームを歩くと、他の人がよける気配が、まだ耳が自由だったときよりもはっきりと感じられるような気がした。
ホームに設置されている点字ブロックをなぞってゆけば乗車位置を確認することはできるし、入ってくる風の変化で電車が停車するタイミングは知ることもできる。
昨日あれほどおかあさんと二人で時間をかけて作ったカードが徒労に終わるかもしれないと思うとなんとなく淋しかった。わたしがタイプで点字を打ち、おかあさんがその裏に文字を書く。おかあさんには悪かったが、それはかなり時間のかかる作業だった。 ふと、背後におかあさんの気配を濃く感じて、わたしは声を出しそうになるが、その気配を無視したままわたしは電車に乗り込んだ。
「どうも有り難うございました。」
鶴橋駅のホームは、野田阪神駅よりも、ホームの人口密度が高いようだった。
人々ははっきりとわたしを避けていた。 まだ音声を感知できた頃も、わたしは自分の周りにいる、わたしを避ける人達の発する音声で、わたしとその人達の違いを感じていた。それは音が聞こえなくなっても変わらなかった。わたしとその人達との間にある溝は、深かった。 わたしの耳が機能しなくなった今でも、わたしとその人達との間にある溝は、さらに深くなるというわけではないだろうと思う。他人から見たわたしは外見的には何も変わっていない筈だったからだ。しかしそう言った事を考えるのは無意味な事だし、そんな気がするのはわたしの思い過ごしにしか過ぎないのかもしれない。 わたしは少し被害妄想的にものを考えるようになった自分に気づき、心の中で苦笑する。 どっちにしたってわたしが他の多くの人達と同じになる事はまずないのだ。もし仮にわたしの耳が音声を感知するようになったり、わたしの目が赤と黒以外のいろいろな光を感じたりする事ができるようになったとしてもわたしが他の人が、視覚や聴覚で感じているいろいろなものを知らないのと同じように、わたしがいま感じている温度や湿度、堅さ、匂い、気配などをわたしと同じように感じられる人はどこにもいない、と思う。 わたしは改札口へ向かって歩いた。それは大蒜の濃度に従って歩いてゆく事と同じだった。改札口を出て迷うことなく私は左の方へ向かって歩いて行った。
渡り切ってしばらく歩き、商店街に入ると、親戚のおばさんの店を探り当てるのは比較的簡単だった。
ひとりで学校に通う際に、おばさんの焼肉屋をルートに入れたのは、いったん覚えたルートを変えると混乱する、と思ったのもあるが、何よりもわたしがここで、おばさんが作ってくれるお弁当を持って学校に行きたかったからだった。 ふと、感じ慣れたおばさんの気配が動いた。おばさんは店の入口あたりに行ってしばらく動かなくなってしまったようだった。わたしのお弁当はおそらく、店の人かおじさんが作ってくれているのだろう。
それはもしかしたら、おかあさんじゃない別の人かもしれなかった。でも、しばらく座っていると、わたしは店内を流れる焼肉屋特有の濃い匂いに充たされた中に、おかあさんの匂いのかけらを探り当てる事ができた。その匂いは間違いなくおかあさんだった。 わたしの嗅覚は、ここしばらくの間にかなり強くなってきているらしかった。 お弁当が運ばれてきて、おばさんがわたしの手をその温かい包みの上に乗せた。わたしはポシェットから紙と鉛筆を出し、メモ帳に左手をしっかりと添え、右手に持った鉛筆の先を突き刺すようにしっかりと紙の上に置いて文字を書いた。そうやって左手に感じる筆圧と筆先の位置をしっかりとイメージしながらでないと、ちゃんとした字は書けない。
自分で聴くことができない音声を発することは、とてもつらい事だった。 わたしを導こうと手を差しのべたおばさんにかぶりを振って、わたしはひとりで店の入口へ向かった。ガラスのドアを引く。そのときわたしは間違いなく近くにいるおかあさんの匂いをつかみ取った。
駅前の商店街から高等聾学校までの道は単純なものだった。わたしは、昨日までおかあさんやおばさんと歩いて、かなりの曲がるポイントや道端の手がかり、距離感などを、既に頭に入れてしまっていた。それらの知識は、それほど多いものではなく、少なすぎるような気さえした。だけど、まだわたしは、自分がまっすぐに歩いているかどうかを音声によるヒントに頼って判断しようとする傾向が、少し残っていた。そのせいで、歩いていて時折、不安になった。わたしは何度か道を横断したが、そのたびにわたしは近くにいる人の気配と匂いを探り当て、
学校での授業は面白かった。 今まであたりまえにあったものがなくなると、残されたものの機能が向上する、と言うことをあらためて身を持って体感する事ができた。学校の先生はとりあえずわたしに手話を教えた。
先生は事あるごとにわたしの掌に言葉を書いた。そしてわたしが背後に先生の匂いと風を感じた途端、先生はわたしの腕を掴んで言葉を形作った。それの繰り返しだった。 先生や他の生徒達は、わたしが手で何かを表現すると、優しくわたしの身体や手を叩いて了解の合図をしてくれた。やがてわたしは紙に文字を書いて相手に何かを伝える方法よりも、わたしの意思が目の前で風になる、手での表現が好きになった。 ひとりで通いだしてから四日目の朝、いつも背後に感じていたおかあさんの匂いはなくなった。おかあさんがついてこなくなるとわたしは、学校までの道に存在するいろいろなものを、新しく感じる事ができるようになった。
何度か学校の友達と公園へ行った。 その友達の近所に住む男の子が、公園の近くの聾学校に通っていたからだった。その友達と行動を共にするようになったのは、彼女が一番、わたしの掌に言葉を書いて、いろいろな事を教えてくれたからだった。
わたしは何度か彼女と一緒に公園に行って、さらさらとわたしの指の間を行き過ぎる砂を触ったり、周りの空気をすべて涼しい風に変えてしまうブランコに乗ったりして遊んだ。
わたしはそうして、新たに学校から公園までの道と、公園から鶴橋駅までの道を覚えた。 そうして彼女と公園を通って帰るようになって一ヶ月くらい経ったある日、彼女はわたしの掌に、
彼女はそれから何日か経って鶴橋駅の前でわたしの手を強く握りしめた。
わたしは何通か彼女に手紙を書いたが、彼女からの返事はなかった。当然と言えば当然だった。考えて見ればわたしからの手紙は、いつも律儀にわたしにいろいろなことを伝えてくれた彼女を困らせるだけに過ぎなかった。
これからはわたしの身の回りにいて、わたしに触れてくれる人や、点字という手段を使いこなす人としか、わたしはコミュニケーションを取ることができないのだ。
濡れた頬が風にさらされて冷たく、その感触が妙に心地よかった。 授業は相変わらず面白かった。わたしはいろんな言葉を形作ってみんなとコミュニケーションを取った。わたしの意思は複雑なものであってもかなり正確に伝わるようになった。
わたしは家に帰るときだけでなく、昼休みにもひとりで公園に行くようになった。公園はいつも、てきとうな光に充たされていた。
その日わたしはいつものように、砂場脇のベンチに座ってお弁当を食べていた。そして、なんとなく後ろに立ち止まって動かない他人の気配を感じていた。そういった事自体ごくたまにあることなので、わたしは別段、気にすることもなくお弁当を食べ続けた。
何とか食べ終えるとわたしは、ポシェットを探り、背後に存在する気配の発信源に向かって、
あまりにも抽象的で自分の意思が存在しない言葉だと思った。これまで一度も使ったことがないカードだったので、まだ、指が切れそうな程堅く、点字の凹凸がはっきりしていてわかりやすかった。 一体、どのような状況を想定して自分がこのカードを作ったのか、思い出せない程だったが、もしかしたら、今日のような状況を想定して、自分がこのカードを作ったのかもしれない、とわたしは思った。
《ひ》・《な》・《た》・《ぼ》・《っ》・《こ》 わたしの手にはたどたどしくひらがなが形作られていった。その文字を感じながらわたしの身体の中から緊張感がさらさらと抜け落ちてゆく。煙草の匂いがした。ショート・ホープ。お父さんが喫っているものと全く同じだった。
すごく楽しかった。かれと話す事も、かれの手で身体に触れられる事も。
かれの名前を聞くと、わたしは学校へ戻って普段通り午後の授業を受けた。だけど、できれば戻りたくなかった。わたしが訊く前にかれは、今度いつここに来るのかわたしに訊いた。わたしは、
わたしの生活は、その日から一変した。わたしは毎日、かれとお弁当を食べるために公園に行き、毎日四時半に待ち合わせるようになった。かれに手を曳かれて鶴橋駅前まで行き、おばさんにお弁当箱を返して電車に乗って帰る。そんな毎日が続いた。
わたしはかれの顔を触らせてもらった。 かれの顔は、お父さんやおかあさんと違って、つるりとしていた。わたしはかれの年齢を訊いた。わたしと同じ歳だった。
わたしはかれの匂いを覚えた。ショート・ホープの煙の中にとけ込んでいるように感じる土に似た汗の匂い、それがかれの匂いだった。一緒にお弁当を食べるとき、かれの肌は少し汗ばんでいて、わたしはそのさらりとした汗を纏った腕に触れたり、匂いを感じたりするだけで、度々、自分が食事中だと言うことを忘れた。 わたしは紙に、
かれはわたしの掌に、そう書いた。かれの書くひらがなが、すぐに言葉となってわたしの内部に浸透する。わたしはすぐにかれの言葉に答えようとして、メモ帳を手に取る。 身体から、言葉が溢れ出る感覚がすごく楽しかった。かれの言葉を身体中で感じているような気がして嬉しかった。 日曜日、公園で待ち合わせてわたしはかれをわたしの家へと導いた。いつもとは逆に、かれの手を曳いて歩くのは少し変な感じがしたが、すごく楽しかった。右手にステッキを持ち、わたしの左手とかれの左手を繋ぐ。かれは時折、とりとめもない言葉をわたしの背中に書く。わたしはその度に頷いたり、少しだけ後ろを振り返ってほほえんだり、かれの手を握っている手に強弱を加えたりした。 家に着くとわたしは、玄関に出てきて来たおかあさんとかれの手を互いに握らせた。後はおかあさんとかれが、音声でコミュニケーションを取るだろう、と思ったからだった。
わたしはかれとおかあさんを置いたまま、ひとりで台所に向かった。いつもの場所に置いてあるメーカーのコンセントを探り、コーヒー豆を入れて水を注ぐと、スウィッチを入れた。そしてわたしはカップを三つ、用意してテーブルの、いつもの席に座った。この席にいれば、コーヒーが出来上がったときの湯気をわたしは感じる事ができる。 わたしは以前から極力、いろいろなことを自分でやりたい、と思っていた。ゆっくり、ちゃんと段取りを確認しながらであれば、料理だって作れると、わたしは思っていた。
テーブルが微かに揺れた。おかあさんとかれが椅子に座ったらしかった。わたしのすぐ近くには、おかあさんの匂いがあった。かれはわたしから遠い位置に座ったようだった。
わたしは暗い洞窟に、コーヒーの怪物と二人きりで置いてけぼりにされてしまったような気がした。わたしはカップを置き直すふりをしてテーブルの上を探ったが、おかあさんの手は何処にあるのかわからなかった。おかあさんとかれは、やはりわたしから少し距離を置いて座っているらしかった。 急に淋しくなってわたしはカップを右手に持ったまま立ち上がり、左手でおかあさんの肩を探り当てるとその前にカップを置いた。
わたしは席に戻り、コーヒーが出来上がるのを待った。出来上がると、わたしを制しておかあさんがわたしの前にあるカップにコーヒーを注いでくれた。おかあさんとかれの話は、まだ続いているらしかった。コーヒーの湯気がテーブルの上を漂い始めると、おかあさんとかれは再び話の続きを始めたようだった。 わたしは自分が淹れたコーヒーをひとりで飲んだ。コーヒーは美味しかった。わたしはかれに何か言葉を書いて渡そうと思ったが、おかあさんがいる前ではなんとなく恥ずかしい感じがして、メモ用紙に向かいかけた手をカップに戻した。 わたしはおかあさんとかれの邪魔をしないように、ゆっくり時間をかけてコーヒーを飲み続けた。飲んでいるうちになんだか腹が立ってきた。 いつもこうだ、とわたしは思う。音声を自由に操れる人達が真剣に会話をし始めると、決まってわたしはひとりになる。 わたしが使う事ができない機能を使ってコミュニケーションを取ることによって、かれらはわたしの手の届かないどこかに行ってしまうのだ。 コーヒーを飲み終えてしばらくそんな事をあれこれと考えていると、遠くにあったかれの匂いが一段と濃くなった。かれはわたしの手を取ると掌の上で指を踊らせ、
駅までの道、わたしは来る時とは逆に、かれの後ろで手を曳かれて歩いた。かれは時折、わたしの手を強く握ったり、緩めたりした。ひっきりなしにショート・ホープの煙が流れてきた。
次の日、かれはいつものように公園でわたしの両肩に手をかけて現れた。わたしは箸で柔らかい白菜の感触を探り当て、隣に座ろうと動き始めたかれの方に向かってキムチをひとつまみ、差し出す。箸先にかれが食らいつく感触がわたしの手に伝わった。
いつも通りのお昼だ、と思った。いつも通りのお昼であることが不思議なくらいいつも通りのお昼だった。公園は光に充たされていて、風は優しかった。 お弁当を食べ終えてカバンの中にしまうとかれはわたしの手を握り、掌に、
瞼、鼻、口唇、耳。 いつかは来るだろう、と思っていた日が来てしまったのだ、とわたしは思った。
わたしがクサることなく前向きに状況を受け入れ、可能性を広げようとすればするほど、近くにいる人間はそれを補助しようとして、疲れてゆく。 かれも、少しずつおかあさんと同じようなものを感じ始めていたのかもしれなかった。 自分が感じる事ができる世界だけで生きていくことになったわたしよりも、わたしが感じている世界と、自分が感じている世界の間を行ったり来たりする方が疲れてしまうのはあたりまえの事だった。 わたしはそのことに気づいてはいたけれど、気づかないふりをしていたのかもしれなかった。
わたしは自分の頬にひんやりと涼しい風が当たっているのを感じた。かれがわたしの前から去ることによって、あの転校してしまった子と同じように、いずれわたしの中からも消えてしまうのが悲しかった。もっと、かれについての手がかりを自分の中に残しておきたいと思った。 かれはわたしの頬を何度か指で拭うと、湿ったままの指でわたしの掌に、
いつもと同じように四時半に公園でかれと会ってすぐに、わたしたちはかれが停めたらしいタクシーに乗り込んだ。わたしはタクシーの中でかれの手をずっと握っていた。どこに向かっているのか、全くわからなかったが、少しも怖いとは思えなかった。 空調が整った、澄んだ空気に充たされたどこかの部屋で、わたしは公園からずっと握っていたかれの手を初めて離した。手を離すとかれはゆっくりと、両手で撫でるようにわたしの顔を支え、わたしの顔中に口唇を押し当て始めた。
汗の匂いがした。わたしはなぞるようにわたしを引き寄せたかれの手に自分の手をかけながら、つるりとしたかれの背中に掌をあてた。 引き寄せられるがままに歩いて、とまった場所は浴室だった。
裸のかれと胸を合わせると、今まで感じたことがない温かさを感じた。身体中に小さい灯りがともったような、そんな感じだった。わたしはもう立っていたくはなかった。身体中の力を抜いて、引力に身を委ねて、澄んだ空気に身を任せたかった。
わたしは、すごく、この、今わたしが腕を巻き付けているかれという生き物が、愛おしかった。 かれは、わたしの身体を丁寧にタオルで拭ってくれた。拭い終えて髪にかれの温かい息を感じたその瞬間、わたしはかれに抱きかかえられた。足が地面に着いていない状態が怖かったが、かれに委ねられたわたしの身体は、自然に脱力した。かれの腕を強く掴んだまま、かれの手から柔らかいクッションの上にわたしは落とされた。
かれがわたしの脚の間に指を落とし始めるとわたしは少しだけ身体を起こしてかれの脚の間にある、堅い部分を掌で包むように握ってみた。熱かった。面白い物体だ、と思った。おそらくはかれも、今触っているわたしにはあってかれにはない部分をそう感じながら触っているのだろう、と思う。
かれの身体がわたしの手と舌を置いてけぼりにして、ゆっくりとずれた。かれの手があった部分に熱い、湿った物体が蠢き始めた。かれの頭はわたしの足の間でなだらかに動き始める。
ゆっくりとわたしの頭上にかれの頭が移動して、かれの両手がわたしの両肩を掴んだ瞬間、脚の間に激痛を感じた。痛みに反応してわたしは全身に一瞬だけ力を入れたが、痛みをこらえながらそのままゆっくりと力を抜いていった。
軽い耳鳴りがした。わたしは自分の鼓動と、かれの鼓動が重なってゆくのを感じながら、いたい、と声に出しかけて、その、自分が発しかけた、い、という声を聞いた。足の間に感じる異物感が不思議に感じられた。
わたしは内股に、一月以上前に感じたものと同じ、温かい液体が流れる感触を認識した。内股とかれの腰が重なっている隙間に手を当て、あのときと同じぬめりを、指先に感じる。
〈了〉
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