略歴。(平成 21/03/08)
ここをクリックしても何も起こりません。


白石昇(しらいし のぼる)
หินขาว มังกรบิน
WHITESTONE Risin'

 言語藝人。昭和44年5月1日長崎県西彼杵郡多良見町生まれ。

 『抜塞』で第12回 日大文芸賞を受賞。

 バンド「プラプラデーン泰日協会」でリードボーカルとギターを担当。

 訳書にノート=ウドム・テーパーニット『エロ本』、『gu123』。

 著書に『津波 アンダマンの涙』。













年譜(本人自筆)

昭和四十四年(1969年)0歳
 五月一日。長崎県西彼杵郡多良見町にて溶接工の父親と看護婦の母親の間に長男として生まれたことになっているが、実際の分娩は諫早市の県立病院で執り行われた。仮死状態で生まれ心臓が動いてなかったらしいが、そのクセ4100グラムもあったためこの年の多良見町健康優良児に選ばれる。

昭和四十五年(1970年)1歳
 デブのままムカつくくらいすくすくと育つ。

昭和四十六年(1971年)2歳
 コンセントプラグを口にくわえて感電したり、布団と一緒に屋根から落ちたりする(無傷)。

昭和四十七年(1972年)3歳
 三桁の足し算と引き算ができた、という二十年後に算数ができずに留年した事実から思えばどう考えてもウソ臭い証言が残っている。

昭和四十八年(1973年)4歳
 何度か行方不明になるがいずれも半日以内に戻ってくる。誘拐ではない。

昭和四十九年(1974年)5歳
 喜々津幼稚園もも組入園。ジャンパーのポケットに手を入れたまま手を広げ、ブーンしながら坂道を駆け下りていたら転んで受身が取れず顔面からコンクリートに激突。左頬を二針縫う。

 十二月、母親にはじめての本、『少年少女伝記シリーズ 野口英世』(ポプラ社)を買い与えられる。ちなみにこのとき同時に姉に買い与えられたのは『ナイチンゲール』。そして母親の仕事は看護婦。これが母親なりの洗脳行為だったというわかりやすい事実に気づくまでにはこの先三十年以上かかる。

昭和五十年(1975年)6歳
 喜々津幼稚園さくら組進級。かなりひねくれて目立ちたがりのガキに育つ。

 もも組スーパーとさくら組デパートに分かれてお店屋さんごっこをするから好きなお店をやりなさい、と先生に言われ、ひとりでチンドン屋をやる。

昭和五十一年(1976年) 7歳
 四月、多良見町立喜々津小学校入学。ポプラ社、講談社などの偉人伝記シリーズを何十冊か読む。よりによって『織田信長』『エジソン』『ゴッホ』などの明らかに頭がおかしい人がお気に入り。

昭和五十二年(1977年) 8歳
 小学館の学習雑誌『小学三年生』を購読開始する。

昭和五十三年(1978年) 9歳
 過食でデブのクセにホームランをたくさん打ったベーブ・ルースの伝記を読み、過食にさらに拍車がかかる。

昭和五十四年(1979年)10歳
 親に剣道をやらされるがすぐ辞める。硬式野球がやりたくて長崎東リトルリーグ入団。はじめての文庫本『にぎやかな未来』筒井康隆著を読む。

昭和五十五年(1980年)11歳
 『週刊少年チャンピオン』秋田書店を定期購読しはじめる。

昭和五十六年(1981年)12歳
 コンピュータ関係の本を読み始める。

昭和五十七年(1982年)13歳
 長崎大学教育学部付属中学校への受験失敗。四月、多良見町立喜々津中学校入学。硬式野球長崎シニアリーグ入団。学校ではバトミントン部入部。平日バドミントン、土日硬式野球と毎日運動しているのだが運動神経はいっこうによくならず相変わらずデブ。

昭和五十八年(1983年)14歳
 親に激しくねだってパソコンを買ってもらう。

昭和五十九年(1984年)15歳
 バトミントン部退部。

昭和六十年(1985年)16歳
 県立高校への受験に失敗。浪人しようとするが親戚一同に止められる。修学旅行先が中国だったというそれだけの理由で選んだ私立高校に二次試験で入学。特別進学クラスに入れられるが担任に嫌われる。

昭和六十一年(1986年)17歳
 別の高校でアマチュアレスリングを初めたが、数ヶ月でやめさせられる。十月、空手道大道塾長崎支部(現・和術慧舟会総本部)に入門。西良典師範の門下生となる。十二月、初めての試合に出場。右の上段回し蹴りをまともにもらってダウンし一本負け。

昭和六十二年(1987年)18歳
 去年十二月初めての試合で膝を巻き込んで倒れ、膝をおかしくするが、おかしい原因がわからないのでそのまま春と冬の試合に出場。学校では授業中教科書の裏に隠して、筒井康隆、大江健三郎、西村寿行、山田詠美などの文庫本ばっかり読んでいた。

昭和六十三年(1988年)19歳
 大学進学。通える道場が芸術系の学部と工学系の学部の近くにあり、推薦での進学だったためどちらかを選択する必要があったが、西良典先生の、お前は本部道場より千葉の佐和田先生のところでやった方がいい、というアドバイスに従い、工学系の学部を選択。三月、左膝の検査入院。半月版損傷と診断され、そのまま手術。

 四月、千葉県習志野市に引っ越し、空手道大道塾千葉支部(現・空手道稲毛道場関東本部)に移籍。佐和田亮二師範の門下生となる。

昭和六十四年/平成元年(1989年)20歳
 二月、初渡泰。ソー・ウォラピンジム、ギャラクシー・ジムでタイ式ボクシングを学ぶ。

 五月、ミヤギテレビ杯北斗旗空手道選手権軽量級に飛び入りで出場。二回戦敗退。

 八月、再渡泰。サムイ島ラマイビーチのバーでタイ式ボクシングの試合に出場。三ラウンド引き分け。

平成二年(1990年)21歳
 四月、北斗旗関東地区大会に軽量級でエントリーしたつもりが書類の記入ミスで中量級にエントリーされていることを減量して行った大会会場で試合当日に知り、ショックと減量疲れで気を失いそうになるが、三位で予選突破。

 五月、ミヤギテレビ杯北斗旗空手道選手権中量級に出場、四位。この頃から鬱と神経症的症状が激しくなり、稽古に行かなくなる。

 七月、バンコクでカルカッタ往復のチケットを買い、陸路でインドのカルカッタからパキスタン、イランを通るルートでトルコのイスタンブールまで一ヶ月で往復。鬱や神経症的症状とすっかり仲良くなって帰ってくる。帰ってきてから人に読ませるための作文を書きはじめる。

平成三年(1991年)22歳
 一月、留年決定。ほとんど現役は退き、道場でコーチとして現役選手のお手伝いをはじめる。

平成四年(1992年)23歳
 母校に断られたため長崎県立大村工業高校で教育実習。その後道場行って学校行って本読んで作文書いてたら一年が終わる。

 道場が全日本キックボクシング連盟に加盟したため、その後、トレーナーとしてプロ選手のお手伝いをさせてもらうようになる。

平成五年(1993年)24歳
 卒業。プラント系の建設会社に就職。技術部に所属されるが三年以内に退職する予定だったのでOLとして給湯室の女王を目指す。

 八月、十七連休の夏休みを取ってタイ、インドに旅行。帰って来たら一部の先輩が社内で口をきいてくれなくなる。

平成六年(1994年)25歳
 通勤電車で本を読み、会社に八時間いて仕事したあと、夜は道場で現役選手のお手伝い。家に帰ってから作文書いて寝ようとすると金縛りにかかり、怖くて眠れず慢性的な不眠症のまま一年を過ごす。あまりこの年の記憶ははっきりしていない。

平成七年(1995年)26歳
 七月、建設会社退社。国際中古機械ブローカーの元でアルバイトをはじめる。渡泰に向けて準備をはじめ、長崎県国際交流協会の交換留学生試験を受験。二次試験の作文で「僕は横綱になります」と書いて合格。

平成八年(1996年)27歳
 五月一日、ホームページ開設。七月、短編『抜塞』で第十二回日大文芸賞を受賞。その後盲腸になり賞金のほとんどが手術代に消える。留学派遣が伸び、バイトを続けながらずっと作文を書く。八月、渡泰。タマサート大学の寮に入り、工学部の寮に通って授業を受ける。当然全部タイ語で日本人は一人だけ。内容などさっぱりわからない。

 十二月、タマサート大学学内ボクシング大会八十一キロ級に出場。三ラウンド判定負けで準優勝(同階級の参加者は二人)。

平成九年(1997年)28歳
 三月、留学期間終了。ホームページ作成の仕事を新聞で見つけ、現地日系企業に社員として入社。バンコク都内バンランプー地区にアパートを借りるが、手違いで家賃を滞納することになり、一ヶ月で拳銃を持った自称マフィヤに追い出される。その後、ディンデーン地区に転居。

 十月、退社。その後はアパートに引きこもってずっと作文を書く。

平成十年(1998年)29歳
 六月、お金がなくなりパソコンも壊れたので日本に出稼ぎ、自動車車体塗装工場を二週間でクビになり、その後コンピュータ部品素材工場で五ヶ月間無遅刻無欠勤で働く。

平成十一年(1999年)30歳
 一月、再渡泰。アパートにこもってタイ語の独習と作文。

 四月、メールマガジン創刊。

 八月、パソコンのハードディスクがいかれたために修理のために日本に行く。お金もなかったのでついでに出稼ぎし、長崎にて電話営業の仕事に従事。

 十二月、再渡泰。

平成十二年(2000年)31歳
 一月、バンコクで日本人とつきあうのがめんどくさくなったので、サムットプラカーン県パパデーン郡に転居。ずっと作文を書きながらメールマガジンの配信、サイトの更新などを続ける。

 十一月、お金が無くなったので長崎に行く。出島で江戸時代のコスプレをして観光客のガイドをするというアルバイトの面接に行ったら既にその面接は終わっていて、別のイベント関係の面接だったことが面接会場で発覚。そのままなりゆきで面接を受け、面接官の、イベントの期間中あなたに何ができます? という質問に、誰よりも安いコストで毎日ホームページ作って更新できます、と答えたら採用。初日に出勤すると、いきなり係長の肩書きが着いた名刺を渡される。

平成十三年(2001年)32歳
 四月、再渡泰。パパデーンに戻ってはじめての文芸書翻訳に着手する。

 十二月、著者ノート=ウドム・テーパーニットに翻訳許可をもらう。

平成十四年(2002年)33歳
 八月、はじめての訳書ノート=ウドム・テーパーニット著『エロ本』を自主製作で出版。自主製作資金で借金を作ったため、九月から長崎に戻ってアルバイトをする。

平成十五年(2003年)34歳
 五月、再渡泰。次の翻訳のためにバンコク都内バンカピ行政区に引っ越し。

 八月、ノート=ウドム・テーパーニットのスタンドアップ・コメディ公演『トゥートムック』にタイ語カタコトでギターが下手なエロ本翻訳者白石昇役で出演。

平成十六年(2004年)35歳
 一月、フリーペーパー『DACO』タイ語版で表紙モデル。ずっとバンカピにて文芸翻訳の仕事。ずっと同じ仕事。

 十二月、インド洋津波発生。タイ国アンダマン海沿岸の被災地に取材助手として雇われ現地で仕事する。

平成十七年(2005年)36歳
 三月五日、エート・カラバオと津波被災者追悼支援曲『ナムター・アンダマン』の日本語版『アンダマンの涙』をレコーディング。カラバオのライブにて歌う。

 九月、訳書ノート=ウドム・テーパーニット著『gu123』がポーディーパーニット社より発売。

平成十八年(2006年)37歳
 ずっとインド洋津波取材時のことを書き続ける。

 四月に第一稿脱稿し、七月に日本に帰国。

 それから長崎でずっと書き直し作業。

平成十九年(2007年)38歳
 姉妹陵辱アダルトゲームシナリオ原稿料の件でトラブル発生。

 二月、ポッドキャスト配信開始。

 七月からコンビニでバイトしながら上京準備。

 その間ずっと津波取材時の作文の直し。

平成二十年(2008年)39歳
 二月にコンビニのバイトをやめ、上京。

 四月渡泰。ウドム・テーパニットと作品の日本国内販売契約を結ぶ。



(平成21年3月現在)
E-Mail
(C) 2000-2006 SHIRAISHI Noboru