藝道日記。(平成 11/07/11)
平成十一年七月十一日

 私は起きて皆さんと食事を摂り、とりあえず荷物をまとめました。レック様はまだ何日かこの村にいらっしゃるようなので、私はひとりでバンコクに戻らねばなりません。なぜ今日戻るかと言う理由はいまひとつはっきりしないのですが、一週間半後に日本に戻らなければならないのでその準備がまあ大きな理由ではあるといえばいえるかもしれません。

 しかし、実のところここに居続けるとずっと毎日日記を付けなければならないと言うのが、もしかしたら最大の理由かもしれません。私は滅多に日記など付けないので、付けると凄く疲れるのです。


 荷物をまとめた私を見て、レック様はじゃあ私もデッウドンの街まで買い物に行くから一緒に行く。とおっしゃいました。弟の大事な儀式が終わって一段落付いたのか、おそらく私と同じように、新鮮な田舎の生活にも少し飽きが来ていたところだったのでしょう。

 そして、私がここに来た初日にトラウマアタックをかけた子供と、レック様の親戚で何年か前までカオサンで働いていたその子のお母さまも、こちらから大首都の方向へ向かってバスに乗り実家に戻られると言うことでしたので同行することになりました。
 



 皆様お見送りの中、大型の乗り合いトラックに乗り込み、デッウドンのバスターミナルへ行くと、レック様達とすぐお別れしてバスに乗り込みました。レック様とお母様はこれからの買い物に心奪われているようでした。そしてバスはそう待つことなく発車しまし、レック様達の姿はすぐに見えなくなりました。

 私は当然のように母と子の隣に座りました。私は眠かったせいもあり、そのまま寝入ってしまいましたが、目を覚ますと、隣の母子は眠りはじめたときとそのままの状態で窓の外を見ておりました。それを見て私は母と子というのはこういう風に母親が眠ることもなく子供を抱き話しかけ続けた時間によってつながりが深まるのかもしれない、と思いました。
 


 が、よくよく考えてみれば私は母親に抱かれ、話しかけられたりした記憶などほとんど残っておりません。これは、母親が看護婦で、家を空けることが多かったから、とかそう言った理由は一切関係ないと思います。単に私の記憶力の問題なのかもしれません。

 私の一番古い記憶と言えば、多良見町喜々津停車場にあった前の家で、口にテレヴィのコンセントを入れ軽く感電して泣き出した、とか、屋根から布団と共に転がり落ちた、とかそう言った記憶でしかないのです。
 

 



 他の人はどうか知りませんが、そんな風に人との関わりに関する記憶が欠落している恩知らず天然アルツの私に人生の貴重な時間の大部分を費やしていただいた親には感謝すべきだとこのとき私は改めて思いました。

 まだ寝ぼけた頭で、子供を抱いた彼女に、どこまでなの? と聞きます。地名は聞き覚えのないものでした。カオヤイの近く、と言葉を繋げたところでだいたいの位置関係がわかりました。私はまだ鈍く働く頭で、少し視線と意識を幽体離脱させて、自分と彼女、そして彼女に抱かれている子供が他の人から見てにどう見えるか考えてみました。

 どう考えても私たちのこの状況は私が父親で彼女が母親、そしてこの子どもが私たちの子供に見えるでしょう。私は鈍い頭を無理に元に戻そうとせず。自分が彼女と結婚して、この子の本当の父親であるという妄想を抱きました。
 


 そう思ってみると凄くこの状況がいとおしいものに感じられてきます。私は何日か前にこの子にトラウマアタックをかけたことなどすっかり忘れています。すっかり父親のつもりなのです。

 私の妄想が、これから家族三人でカオヤイの近くの町にある家に戻り、食事の用意を始めた彼女をよそに子供に水浴びをさせているところで、バスは本当にカオヤイの近くに着いたらしく、彼女とその子供はバスから降りていきました。

 その後ろ姿を見ているとなんだか私は誰と家庭を持っても上手くやって行けるという、妙な自信のようなものが湧いて参りましたが、半年ほど前に結婚前提のお付き合いがひとつ壊れたことを思い起こして、その自信のようなものはすぐに、窓から見える子供を抱いた彼女の姿のように遠くなってゆくのでした。

  〈了〉
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