なんだか自分でもよくわからない状態で一応のメモを取ってみますと、この半日間の出来事がすぐに言語化できる種類のものではないことに気づき、かなりぞんざいに要点だけ書いて私は立ち上がりました。写真を少し撮ろうと思いカメラを手に取ったのですが、マンガン電池は既に尽きてしまっています。もうこれ以上写真は撮れません。
それに仮に電池があったとしても、パソコンをバンコクに置いてきたために、デジカメのメモリーいっぱいいっぱいなったデータを逃がすこともできないのです。私はこれ以上写真にこだわる事をやめ、かといってそこでそのまま寝ていても、誰もいない家でこれ以上なにも起こりそうにないため、外に出ました。学校に行ってみるつもりでした。
学校の校庭には何頭かの水牛が放してありました。元気にボールを追い回しているサッカー少年達に見つからないよう私は校庭の端っこを隠れるように歩いていきましたが、案の定すぐに見つかり、皆様に、サッカーやろうぜ、と声をかけられます。私は愛想笑いだけを彼らに返し、校舎に近づいていきました。建物のあちこちに書かれている文字を読んでいると、壁に、
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と書いてあります。負けを知り勝つことを知り許すことを知る、私の頭の中で意味だけが認識されました。いいこと書いてあるなあ、と思ってすぐその言葉を日本語化しながら私はもしかして、長崎県西彼杵郡多良見町立喜々津小学校の木造校舎にもそう言った素晴らしい言葉が書いてあったのかもしれない、とほとんど風化した記憶をたどってみましたが、思い出せるのは理科実験室に貼ってあったパスツールの肖像画だけでした。
私は更に建物の二階に上がりました。二回の壁には黒板が吊してあり、そこには各学年別の生徒数が記してありました。義務教育の小学六年生と、中学一年生の人数には実に倍近くの差がありました。 |
私はこの国で品質の高い農作物を作る人たちはたくさんいても、品質の高い藝を見せる藝人が誕生する可能性が低いことに気づいて、よし敵は少ねえヤッたるでえ、と無意識のうちに呟くのですが、よくよく考えてみれば小学三年生の泰語文法テキストですら満足に綴れない私にとってはどっちにしろまだまだ遠い道だという動かしがたい事実に気づいて少しだけ鬱っぽい気分に陥るのでした。
建物を出ると校庭には水牛が無防備に草を食んでおりました。私が身体に触れると背を向けて少しだけ距離をとりますが、逃げる気配はありません。私は背中に乗りたい衝動をぐっとこらえ、背を向けた水牛の更に無防備な肛門を見つめました。
水牛の肛門は斜め上方に向かって海洋軟体動物のように息づいておりました。当然のように私の頭の中には水牛というものはどうしてこんな風な角度に肛門が付いているのだろうという疑問が撒き起こります。
しかし私は考えても結論の出ない疑問について思いを巡らすことをここ数日間やめるように極力つとめておりましたので、それはそれで水牛としての因果な一生なのだという風に結論づけました。ヘタに考えはじめると、またあのエレキギターの音に頭を支配されてしまいます。
これ以上水牛の肛門を観察することをやめ、私は校門から学校を出ました。すぐ前の家で、おばさんが朽ちかけた木材を割っておりました。割れた木材からは白くぷりぷりとした幼虫が出てきます。おばさんはそれをひとところにに集めておりました。間違いなく食用であるその白くぷりぷりとした幼虫を見ておりますと、私はわくわくしてきました。
何故わくわくしてきたかというと、これからそのぷりぷりした幼虫の調理が始まり、結果的に私もご相伴に預かれるかというあさましい期待が私の中にあったからです。しかし、おばさんの脇には子供がしゃがんておりました。三歳か四歳くらいの子供です。
子供はおばさんのほじり出す虫を一所に集め、私に厳しい視線を投げかけます。私はその視線の意味を確認するためにおばさんが朽ちた木からはじき出した幼虫に手を伸ばしてみました。その瞬間、案の定その子供はけたたましい声を上げて泣き出しました。
おばさんは泣いた子供を笑顔で家の庭の中に入れ、朽ちた木材を道脇に寄せて鉈を持って立ち上がりました。おばさんは手に持った鉈を私に向けて振り上げるような様子などはなく、私に向かって笑顔を見せ、水でも飲んでく? とおっしゃいました。
私はその家の庭の、竹で編まれた台に座らされました。おばさんはアルミのカップに水を汲むと私に渡しました。日本から来たんだって、とおばさんは聞きます。ええそうです、と私は答えました。普段の私なら、いいえバンコクからです、と軽くボケるのですが、おばさんの質問やその声の感じ自体が、私がボケることを必要としていない気がしました。
おばさんは鉈を片付け私の隣に座りました。家の中から子供が心配そうにこちらを見ています。まるで星飛雄馬の姉のようです。よくよく考えてみればあの明子姉さんは敵である花形家にいけしゃあしゃあと嫁いだんだよなあ、と私は子供から視線を外してそう思いながら、このおばさんとどう会話をすすめたらよいのか考えて始めていました。
日本の田舎もこんな感じでしょ、おばさんはあくまでも自然な声でに私に聞きます。私はこの村に自分が来てから村人の日本に対する紋切り型の認識に食傷していたので、その言葉がとても新鮮に感じられました。
私もずっとおばさんが思っていたことと同じ事をここの村に来たときから感じていたので、はい、と即答し、でも、何でそうだってわかるんですか? と逆におばさんに聞き返しました。
テレヴィで、おしん、を見た時にそう思ったのよ、どこの国でも田舎は同じみたいだってね、おばさんは、私が飲み干したカップを取り上げ、何も聞かずに再び瓶の中に手を突っ込みながらそうおっしゃいます。
おばさんから渡されたカップを手に取り、私は小学生の時に見た、おしん、の情景を思い起こしてみましたが、雪深い景色しか思い出せませんでした。こことはまるで違う景色です。おばさんが同じだと判断したのはおそらく、田舎の心象的な風景なのでしょう。
そう考えれば納得がいくな、と思いながら私は遠く離れたこの地で、おばさんの感情を見事に揺さぶった橋田壽賀子をこっそりと、心の中でつけている日本語藝人ライバルリストに書き加えるのでした。
おばさんに水の御礼を言ってアルミのカップを返し、私は立ち上がりました。あたりはもうかなり暗くなりかけていました。小学校の校庭ではまだサッカーが続いています。これからサッカーをする気力も体力も私にはなかったので、おとなしく家に戻ることにしました。
もう一度おばさんに御礼を言い、竹で出来た柵を出て、右に向かってまっすぐ歩きますと、道脇で水牛が草を食べているのが見えました。かなり大きな水牛で、まるまるとしておりました。私はまだ少し、水牛の背中に乗るというささやかな野望が自分の中に残っておりましたので、水牛の隙を注意深くうかがいました。
しかし水牛は私の気配を察知したかのように巧妙に私が用意に近づけないポジショニングを取ります。まるでホイス・グレイシーのような巧妙さです。それに、道脇は草が多く、田圃に向かって傾斜しているので、そう簡単に近づくことは出来ません。
私は結局あきらめて、家に戻り横になりました。そしてそのまま寝入ってしまい、朝まで目が覚めませんでした、
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