藝道日記。(平成 11/07/10)
平成十一年七月十日

朝、蓮池の花が一斉に開いていました。



 得度の日。朝から飯も食わずにレック様に寺に連れてかれると、寺には凄い数の人がいらっしゃいます。どうやら村中の人が集まっているらしく、皆様沢山のグループに分かれて寺のいろんなところでラープや豚とキャベツのゲーンなどを食っていらっしゃいます。村の方々は日本国籍の私を見つけるとすぐに、飯を食わせようと手招きなさいます。レック様はいつものように私をほっておく方針らしく、誘われるがままに私はみなさんに混ざって飯を食いました。

 村の方々は日本人を珍しそうにみながら盛んにこちらの様子をうかがっています。熱い視線が時折痛いほど身体中に突き刺さるので、私はみなさんの期待に応えるべくにこやかな笑顔を振りまいたり手を振ったりしなければなりません。藝人としての職業意識のようなものです。しかし何故か、手を振って近づくと、子供はなぜか七対三の割合で逃げてゆく子供の方が多いのです。子供の皆様は私からのトラウマアタックを本能的に恐れていらっしゃるようです。

 飯を食って皆様の視線にさらされ続けるのも飽きて、私は人だかりがしている本堂への階段を上りました。本堂の人だかりの中心にいるレック様の弟はすっかりと剃髪完了されていて青々とした頭皮を皆様の前に晒していらっしゃいます。それが、今更ではありますが、何となく宗教的荘厳な雰囲気に包まれているような感じで、私はなんだか自分がお呼びではないような気がして、谷啓とハナ肇に背を向けたときの植木等のようにコソコソと逃げるように本堂から降りるのでした。
 

母と出来たて少年僧。

少年僧とそれを遠目に見つめる姉。

 どこにいていいのかわからなくなった私は、とりあえずレック様の一番大きな弟様達がたむろしておられるあたりに行きました。そこにいた皆様はちょっと不良っぽい感じの集団でした。生来虐められっ子の私はその中に入ってただビクビクしていたのですが、皆様は盛んに、気に入った娘がいたら俺が話をつけてやるから言え、などと少し離れたところに固まっている娘のグループを目で促しながら私におっしゃいます。

 私が、そんな必要はない、話がしたかったら自分で話しかける、と言っても皆様達はしきりに誰か気に入った娘はいないかと相も変わらず私に問い続けます。まるで脅迫です。よくよく雰囲気を読み考えてみると、実のところ、彼らは単に自分たちが私をダシに使って娘と話したいだけのようです。
 


 寺の敷地内に散らばった人々を見てみると、見事なほど日本の田舎と同じように、男女席を同じゅうせず状態で、その光景を見ながら日本や此処に限らず田舎の村という共同体の中では席を共にしないのではないかなと考え始めたのですが、例によってめんどくさくなってきたのですぐに考える事をやめると、近くにいたおばさまからソムタム用青パパイヤを千切りするように言われました。そのまま私はおとなしくその青パパイヤを削る作業にハマっていたのですが、レック様に呼ばれたのでいったん家に戻ることにしました。

 家に戻ると、レック様に、また寺に戻って再度飯を食え、と言われました。二度目の朝食です。レック様のお言葉に私はある種の理不尽さは感じましたが、この村で私を生かすも殺すもレック様次第。おとなしく言うことを聞いておいた方がご機嫌を損ねずに済むのと、私自体小腹が空いていた事情もあって、素直にお寺に戻りました。
 


お寺のあちこちにいらっしゃる皆様。

本堂の影で涼んでいらっしゃる皆様。
 お寺に戻ると私は適当にあちこちの群に愛想を振りまきながらお食事のご相伴に預かりました。不良っぽい少年達の中で食ったり、豚の脂を鍋で揚げているおばさん達とお話をしながら火傷しそうなくらい熱くかりかりとした豚の脂肪をつまんだり、とにかく私は食い続けたのでした。

 そうしていると、寺の前庭にピンクの服を着た太鼓楽隊が現れ、踊りながら太鼓の演奏をはじめました。まるで沖縄のエイサーです。得度式を済ませた二人の少年僧がピックアップトラックに乗せられてゆっくりと走り始めると、太鼓楽隊の中で一人だけダブルネックのギターを持ったこれまたピンク服の男がルークトゥンチックな旋律を奏でながらそれに続いて歩き始め、太鼓楽隊も全員、トラックの後について歩き始めました。
 


まだ揚げる前、解体中の写真。



 そしてその楽隊の後について村の人たちが行列をなして歩き始めたところで初めて私はこの集団行動がようするに新しい少年僧の誕生を祝うパレードであることに気づいたのでした。炎天下の中、行列をなして村をねり歩く皆様達と共に、私も迷うことなく行列の中に混じって歩くことにしました。

 だらだらと続く行列はお寺の入口を出て、村のメインストリートに出ました。道端の家から行列に加わらない人たちが洗面器から手で行列の中の人たちに水をかけています。行列の中で一大勢力であるおばさま達は思い思いに踊っています。

 私は、時折日本人をエサに若い娘さんとお近づきになろうとする少年達や、私が近づくと化け物を見たように泣き出す子供などに翻弄されつつ、行列の中を一人で前に行ったり後ろに行ったりしながらもしっかりと群の中に混ざって歩いていきました。

 メインストリートを脇に逸れ、きのう鶏を調達しに行った製材所の脇を通る頃になると、私はすっかり頭の中に響き渡るエレキギターと太鼓の音、目の前で踊り続けるおばさま達の前衛的な踊りなどのお陰で、すっかり意識がトランス状態になってしまっていました。軽く頭痛もします。よくよく考えてみればどうやら私は、この炎天下に動き回った結果、軽い日射病に罹ってしまったようです。


 私はパレードの行列から離れ、家に戻って水を飲み、隣の家の日陰で少し休みました。休んでいるうちにやがて行列が、遙か向こうに見える小学校まで行って戻ってきたらしく、再びメインストリートに戻って私の目の前を横切りました。頭痛はかなりおさまっていましたので私は立ち上がってその行列の中に入り歩き始めましたが、すぐにあのエレキギターの音が私の意識を亜空間に導いてしまい、私の足は何かに曳かれるように前進し、寺までの道を確実に踏みしめてゆくのでした。

 絶対にあのギターの音だあのギターの音が原因だああああ、と一人日本語でぶつぶつと叫びつぶやきながら寺にもどりました。頭の中で44匹ほどのコオロギがオクラホマミクサーを踊っているような感じがまだ続いていて、明らかに尋常ではない状態でした。確かに村中に響き渡っていたギターの音は客観的に反芻してみても普通では考えられない響きの様な気がします。

 絶対に何かあるあの音には何もないわけはないんだあんな音にい、と考えながら私は更に混乱しそうになりましが、よくよく考えてみればこれは宗教儀式なのだから何かあっても何の不思議もありません。何だそうなんじゃんこの村のどっかがきっと恐山イタコ状態なんだ、とそう決めつけてしまうと私は妙に安心して呼ばれるままにまた食事の輪の中に入ってご相伴に預かることにしました。
 


いつ食ったのかはっきりしないけど、
この日に食ったのではない事は明らかな
パイナップルサラダ。(本文とは無関係)


 朝から食いつづけている総量を考えると、どう考えてもとっくに胃が満腹中枢に電波をガンガンに飛ばしている状態なのですが、それでも何の迷いもなく餅米に手を伸ばしたそのときの私は、間違いなく毀れていたのでしょう。でも私はその毀れ具合を自覚しないどころか明らかに愉しみつつ餅米を右手で握りこねていたのでした。

 そしておかずに血のラーブ、ラーブルアットを食わしていただきました。よくよく聞いてみると、丼の中を赤く染めている血液は豚の血のようです。そしてその鮮やかな赤色を纏った豚肉は完全には火が通ってないのは明らかでした。少しだけ、三十年間一度もナマではお目にかかったことがない寄生虫の、自ら頭の中で捏造したおどろおどろしい姿が脳裏に浮かんだのでが、かまわず食べました。ここでひいてはライオン系藝人としてお客様に合わせる顔がありません。私はいつだって血の滴るものに背を向けてはならないのです。

 血のラーブは美味でした。唐辛子や大蒜などの刺激物を一緒に和えてあるので、元気な寄生虫なんかいないさきっといたって死んでるし死んでなかったとしてもかなり弱ってるから俺のハードコアな胃酸でいちころだぜえ、と私は自分を慰めるようにそうつぶやきながら、餅米と共においしいラーブをつまみ続けました。
 

 


 小腹は程良く満たされ、私は再び立ち上がりました。お寺の近くまで歩くと、レック様が私に気づき、口に血が付いてるわよ、とおっしゃいました。私が手で血を拭うと、もしかして、ラーブルアット食ったの? と聞かれます。はい、と私は答えると、うぇぇ、よく食べれるわねえあたし食べれないわ、とおっしゃいます。

 私はそんなレック様に顔は笑顔で、口ではは、おいしいよーん、と東北方言で言いながらも心の中では、ラーブルアットも食えないなんて貴様それでもイサーン人か立て歯を食いしばれ、と叫びながら全力で張り手をかましていたのでした。

 しばらく少年グループと戯れたり、おばさま方と世間話などしておりますと、目の前にある樹の表面を、登ってゆくでっかい赤蟻を発見しました。その頭ひとつがタイ米の破片くらいあろうかという信じがたいでかさの蟻は、あろう事にひとりで魚の頭を運んでおります。魚の頭と言ってもメダカ程度では決してなく、小ぶりの鰯か鰺くらいはゆうにあります。

 私はしばらくその赤蟻の様子を樹木の表面を下から上になぞるようにゆっくりと取り憑かれたように見ておりました。蟻の動きはすぐに私の視界から入って意識全部を満たしてしまい、頭の中に少しだけ残っていたエレキギターの残響が大きくなってゆきました。^



 その私に向かって、樹の向こう側から一人の爺様が歩いていらっしゃいました。爺様の姿は蟻に向けられていた私の視線を奪い取るように近づいてすぐに私の視界を満たしました。しようがなく私が目線をあわせると爺様は、娘達が気に入ったら俺に言えさあ言えすぐに言えどの娘だ俺がナシをつけてやる、とおっしゃいます。

 どうやら爺様は私が樹の向こうにいた二人の娘を見ていたと思ったらしいのです。あれかあの娘かそれともあれかあれはどうだどれがいいんだ、と凄い勢いで私に迫ってくる爺様に愛想笑いを投げかけ私は、水を飲みに行くフリをしてその場から離れました。

 なんか飲みたくもなかったはずなのに飲んでみるとけっこうな量の水を飲んでしまい。更に重くなった腹を抱えてそのあたりをうろうろしておりますと、今度は青年に話しかけられました。私は初対面のよそ者ですから丁寧にその青年に挨拶をしましたが、よくよく考えてみれば、青年はどう見ても私より年下です。

 この何日か村の中で、自分より少なく見ても十歳以上年下の少年達と遊んでいたせいで私はすっかり自分が三十歳を過ぎたいい年のオヤジであることを忘れています。そう言えば心なしか村の人が私を見る目もすっかり子供を見る時のような目であるような気がします。
 


 日本では一ヶ月働くと七万バーツ稼げるってのは本当か? 青年は私にそう聞きました。こういった類の質問は細かく答えるときりがないので私は、まあそうすね、と答えると青年は、おまえが友達としてビザを取って貰えるよう便宜を図るというのは可能か? と更に質問なさいます。それは困難だ凄く困難だ、と私は即答し、それだけではなく他のことについてもものすごく困難だ、と言葉を繋ぎました。

 何が困難なのか説明する以前にそれを考えること自体が私にとって困難な作業なので私は意図的に話題をすり替えこの話をやめました。彼が今すぐ日本へ行って出来る仕事と言えば肉体労働しかありません。

 肉体労働の困難さはそうおいそれと言語化して説明できるものではなく身体に染みついている種類のものですから、たとえ私が日本語で説明するとしても非常に困難なのです。私はこのとき落合信彦あたりの本を読んで米国に行きたいとぬかし始めるガキを持った親の苦労がわかったような気がしました。

 


 私はさりげなく自然にその場を離れ、お寺の裏手に行きました。そこには不良少年達がたむろしていらっしゃいました。そうこうしているうちにできたてほやほやの少年僧がやってきて、自分の兄を含む少年達と戯れています。儀式を経て一人の外見が変わっただけで、彼らの関係は何一つ変わっていないように思えました。もう私の頭の中にエレキギターの音はありませんでした。

 自然解散的に寺に村人達の数が少なくなるに従って、私は弟様達と一緒に家に戻りました。学校の校庭にサッカーしに行こう、と言うありがたいお誘いをいただいたのですが、私は今日あった一連の流れを何かしら書き取って置く必要があったのでお断りしました。家の中で一人になってノートを広げ、ボールペンを握って右手を動かしはじめると、今日起こったことが次々と蘇ってきてまたあのエレキギターの旋律が私の頭を満たしはじめるのでした。


弟の手首に有り難い紐を結んでいる写真(ヤラセ)。


 なんだか自分でもよくわからない状態で一応のメモを取ってみますと、この半日間の出来事がすぐに言語化できる種類のものではないことに気づき、かなりぞんざいに要点だけ書いて私は立ち上がりました。写真を少し撮ろうと思いカメラを手に取ったのですが、マンガン電池は既に尽きてしまっています。もうこれ以上写真は撮れません。

 それに仮に電池があったとしても、パソコンをバンコクに置いてきたために、デジカメのメモリーいっぱいいっぱいなったデータを逃がすこともできないのです。私はこれ以上写真にこだわる事をやめ、かといってそこでそのまま寝ていても、誰もいない家でこれ以上なにも起こりそうにないため、外に出ました。学校に行ってみるつもりでした。

 学校の校庭には何頭かの水牛が放してありました。元気にボールを追い回しているサッカー少年達に見つからないよう私は校庭の端っこを隠れるように歩いていきましたが、案の定すぐに見つかり、皆様に、サッカーやろうぜ、と声をかけられます。私は愛想笑いだけを彼らに返し、校舎に近づいていきました。建物のあちこちに書かれている文字を読んでいると、壁に、
 
 
 と書いてあります。負けを知り勝つことを知り許すことを知る、私の頭の中で意味だけが認識されました。いいこと書いてあるなあ、と思ってすぐその言葉を日本語化しながら私はもしかして、長崎県西彼杵郡多良見町立喜々津小学校の木造校舎にもそう言った素晴らしい言葉が書いてあったのかもしれない、とほとんど風化した記憶をたどってみましたが、思い出せるのは理科実験室に貼ってあったパスツールの肖像画だけでした。

 私は更に建物の二階に上がりました。二回の壁には黒板が吊してあり、そこには各学年別の生徒数が記してありました。義務教育の小学六年生と、中学一年生の人数には実に倍近くの差がありました。

 私はこの国で品質の高い農作物を作る人たちはたくさんいても、品質の高い藝を見せる藝人が誕生する可能性が低いことに気づいて、よし敵は少ねえヤッたるでえ、と無意識のうちに呟くのですが、よくよく考えてみれば小学三年生の泰語文法テキストですら満足に綴れない私にとってはどっちにしろまだまだ遠い道だという動かしがたい事実に気づいて少しだけ鬱っぽい気分に陥るのでした。

 建物を出ると校庭には水牛が無防備に草を食んでおりました。私が身体に触れると背を向けて少しだけ距離をとりますが、逃げる気配はありません。私は背中に乗りたい衝動をぐっとこらえ、背を向けた水牛の更に無防備な肛門を見つめました。

 水牛の肛門は斜め上方に向かって海洋軟体動物のように息づいておりました。当然のように私の頭の中には水牛というものはどうしてこんな風な角度に肛門が付いているのだろうという疑問が撒き起こります。

 しかし私は考えても結論の出ない疑問について思いを巡らすことをここ数日間やめるように極力つとめておりましたので、それはそれで水牛としての因果な一生なのだという風に結論づけました。ヘタに考えはじめると、またあのエレキギターの音に頭を支配されてしまいます。

 これ以上水牛の肛門を観察することをやめ、私は校門から学校を出ました。すぐ前の家で、おばさんが朽ちかけた木材を割っておりました。割れた木材からは白くぷりぷりとした幼虫が出てきます。おばさんはそれをひとところにに集めておりました。間違いなく食用であるその白くぷりぷりとした幼虫を見ておりますと、私はわくわくしてきました。

 何故わくわくしてきたかというと、これからそのぷりぷりした幼虫の調理が始まり、結果的に私もご相伴に預かれるかというあさましい期待が私の中にあったからです。しかし、おばさんの脇には子供がしゃがんておりました。三歳か四歳くらいの子供です。

 子供はおばさんのほじり出す虫を一所に集め、私に厳しい視線を投げかけます。私はその視線の意味を確認するためにおばさんが朽ちた木からはじき出した幼虫に手を伸ばしてみました。その瞬間、案の定その子供はけたたましい声を上げて泣き出しました。

 おばさんは泣いた子供を笑顔で家の庭の中に入れ、朽ちた木材を道脇に寄せて鉈を持って立ち上がりました。おばさんは手に持った鉈を私に向けて振り上げるような様子などはなく、私に向かって笑顔を見せ、水でも飲んでく? とおっしゃいました。

 私はその家の庭の、竹で編まれた台に座らされました。おばさんはアルミのカップに水を汲むと私に渡しました。日本から来たんだって、とおばさんは聞きます。ええそうです、と私は答えました。普段の私なら、いいえバンコクからです、と軽くボケるのですが、おばさんの質問やその声の感じ自体が、私がボケることを必要としていない気がしました。

 おばさんは鉈を片付け私の隣に座りました。家の中から子供が心配そうにこちらを見ています。まるで星飛雄馬の姉のようです。よくよく考えてみればあの明子姉さんは敵である花形家にいけしゃあしゃあと嫁いだんだよなあ、と私は子供から視線を外してそう思いながら、このおばさんとどう会話をすすめたらよいのか考えて始めていました。

 日本の田舎もこんな感じでしょ、おばさんはあくまでも自然な声でに私に聞きます。私はこの村に自分が来てから村人の日本に対する紋切り型の認識に食傷していたので、その言葉がとても新鮮に感じられました。

 私もずっとおばさんが思っていたことと同じ事をここの村に来たときから感じていたので、はい、と即答し、でも、何でそうだってわかるんですか? と逆におばさんに聞き返しました。

 テレヴィで、おしん、を見た時にそう思ったのよ、どこの国でも田舎は同じみたいだってね、おばさんは、私が飲み干したカップを取り上げ、何も聞かずに再び瓶の中に手を突っ込みながらそうおっしゃいます。

 おばさんから渡されたカップを手に取り、私は小学生の時に見た、おしん、の情景を思い起こしてみましたが、雪深い景色しか思い出せませんでした。こことはまるで違う景色です。おばさんが同じだと判断したのはおそらく、田舎の心象的な風景なのでしょう。

 そう考えれば納得がいくな、と思いながら私は遠く離れたこの地で、おばさんの感情を見事に揺さぶった橋田壽賀子をこっそりと、心の中でつけている日本語藝人ライバルリストに書き加えるのでした。

 おばさんに水の御礼を言ってアルミのカップを返し、私は立ち上がりました。あたりはもうかなり暗くなりかけていました。小学校の校庭ではまだサッカーが続いています。これからサッカーをする気力も体力も私にはなかったので、おとなしく家に戻ることにしました。

 もう一度おばさんに御礼を言い、竹で出来た柵を出て、右に向かってまっすぐ歩きますと、道脇で水牛が草を食べているのが見えました。かなり大きな水牛で、まるまるとしておりました。私はまだ少し、水牛の背中に乗るというささやかな野望が自分の中に残っておりましたので、水牛の隙を注意深くうかがいました。

 しかし水牛は私の気配を察知したかのように巧妙に私が用意に近づけないポジショニングを取ります。まるでホイス・グレイシーのような巧妙さです。それに、道脇は草が多く、田圃に向かって傾斜しているので、そう簡単に近づくことは出来ません。

 私は結局あきらめて、家に戻り横になりました。そしてそのまま寝入ってしまい、朝まで目が覚めませんでした、
 


疲れたときはおうちで休むに限ります。
(画像データ保存状態不良のため、画像が多少異常です。ご容赦下さい。)

平成十一年七月九日平成十一年七月十一日に続く。
 
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