藝道日記。(平成 11/07/09)
平成十一年七月九日
 
 朝ご飯は卵焼き、昨日の小魚、そして餅米カオニャオで済ませ、みんなでお寺に行くことになりました。

おうちの中。
 お寺では、昨日の若いお坊さんとまたお話ししたのですが、まわりで村の方々が料理を作っていて、私はお坊さんに椰子の実の内側に付着している白い胚乳を刮ぎ取る作業を命じられました。そして、やっているうちにこの単純作業に夢中になり、見事にハマりました。

 どれくらい続けたでしょうか。気が付くとまわりにいる村の人々の人数は、かなりの数になっていて、こういう地区行事の際に日本でも見られるように男女に分かれて作業をしていました。

 椰子の実がもう無くなったため、私は若い女の方達に混じって甘く味付けされたカオニャオをバナナの実と一緒にバナナの葉に包む作業に取りかかりましたが、この作業にはどうやらナイスなスキルを必要とするらしく、今日初めての私は全然うまく包めません。


胚乳削りアイテム。
  私のせいで形の悪いものが増えると困るので、若いお坊さんとマッチ棒パズルなどをして遊んだのち、何枚か写真を撮ってからうちに戻りました。

 うちに戻ると、道を挟んで向かい側の家から、レック様の一番年食った弟様の呼ぶ声がしたので、急な階段を上ってそのうちの二階に上がると、若い男達が集まってサトーという白酒を飲んでおられました。私は彼らに勧められるがままにその中に入って甘く美味なサトーを飲みながらその場にあった漫画などを読みはじめました。

 漫画は田舎からバンコクに出て働き始めた二人の女のうち、ひとりはまじめに建設現場で働き、もうひとりはやがて夜のクラブで歌い、客を取り始め生活が潤ってゆくのですが、最後にはHIVに感染し、不幸のズンドコ((c)寺島純子)のうちに幕を閉じる、というとても分かりやすい話でした。


このあたりのおうちはみんな高床式。
 そのうち年長の弟がつまみの魚を買うから四〇バーツくれとおっしゃるので私はポケットの小銭を探りましたが、そこには三五バーツしか入ってなく、私は三五バーツを取り出し渡しましたが、更に足りないらしいので私は再びポケットを探り奥の方にあった三バーツを渡しました。私のポケットは空になりました。

 貴重品袋の中を探れば何百バーツかの紙幣があるはずなのですが、経験上こういうときに必要以上の金を出してしまうと、いわゆる紋切り型のお金持ち日本人扱いされてしまい、後からそういった風にお金持ち日本人に対する紋切り型の期待感が周囲に蔓延してしまう為に、そういった状況をよしとしない私は敢えて小銭しか渡しませんでした。

 この嘘がいい事なのか悪いことなのかよくわかりませんが、私はかつて十年以上前にお年玉を多くくれる親戚のおじさんに抱いたような即物的な感情を、彼らが私に対して持つことがイヤだったのです。しかし、結局簡単に言うと私は金があるのに出さないケチなのだと言うことだけなのかもしれません。

 そんな私を年長弟とそこにいた友人は快くバイクの後ろに載せてくれ、四人で二台のバイクに乗って魚を買いに行ったのですが、一キロほど走った村はずれの牛小屋にいる爺さんに、魚はもう無い、と言われ、その後更に来た道を戻って脇道に入った製材所に行って鶏を買うことになりました。

 私はそこで、待ってろ、と言われたので大人しく若い衆が小さな電動鋸で木を切ってゆく様子を見ていたのですが、そのうち年長弟が戻って来られて、鶏も無いから戻ろう、と言われたので戻ってみると、建物の二階中に既に生臭い血の匂いが立ちこめておりました。


これが村のメインストリートだったりする。
 おそらく庭にいたのを一羽シメたのでしょう。二階の台所では鶏が毛を毟られている最中であり、その様子を見た私はなんだか嬉しくなりまだ何を作るのかもわからないまま、かといって改めて何を作るのか聞いてみる気も起きずに一緒になって鶏の毛を毟りながら、時折渡されるサトーを飲みつつ、食肉の解体を手伝いました。

 ライオン系モツマニアの私は、自分で勝手にモツ関係を担当することにして包丁を持ち、腎臓肝臓を切り分け砂肝を裂き内壁を剥いて、丹念に腸を裂き開いてゆきました。作業しながらさっきの寺でやった椰子の胚乳剥きといい、今日の私はよく働くな、と思いました。

 内蔵をげしげしと切り分け、水を張ったバケツに突っ込んで肉片や自分の手に付着した血液を洗い流し、どう考えてもこれから始まる味付けの作業は私が関与すべき仕事ではないようなので、大人しく座に戻ってサトーを飲んでいるとすぐにトムヤム味のスープが運ばれて来、すかさず何故かいつもどこからか湧いて出る篭入りのカオニャオが出てきたのでそれと一緒に食っていたのですが、不思議に昨日の満腹感がサトーの酔いとともに今ここにフラッシュバックしてきてしまい胃が充血し始めたので、そこにいた皆様に、ご馳走様と言って外に出て、弟様達と一緒に道端の日陰になっている休憩所で横になりました。

 しばらくして目が覚め、寝汗にまみれた身体を起こすと、一緒に寝ていた方々は誰もいなくなっていて、目の前を制服を着た下校途中の小学生が冷たい視線を私にちらちら投げかけながら通り過ぎてゆきます。

 そんな彼らのまるで腫れ物を見て見ぬふりするような歩行態度を見ながら私は、これじゃまるで不良外人を通り越して人間の屑かもしれない、と思ったのでした。


お前らいつか絶対シメてやる。
 うちに戻って水浴びを済ませ、二階に上がると、そこにあったのはどう考えても、昨日皆様に差し上げたバージニアスリム以上にここには似つかわしくないジム・ビームの大きなボトルでした。

 いつものカオニャオと同じようにどこからかコーラと氷が現れ、また酒盛りになりました。すぐにコーラはなくなり、私は言われるがまま半分自ら進んで村に一軒しかない雑貨屋にコーラを買いにパシり、三〇バーツ払ってペットボトルを抱えて戻ってくると、家ではすっかり夕食の準備が出来ていました。料理はいつものようにカオニャオと、何故か珍しく焼き飯、さらに白飯、加えてスープの具はナマズと青パパイヤでした。


ナマズ調理中。
 今日何度目でしょうか、食べ終えて満腹の至福とジム・ビームの酔いを味わっていると、レック様が寺に行こうとおっしゃりまして、寺に着くとそこにはまるで長崎県西彼杵郡多良見町の商工会祭りで使われるような狭く、ドリフのコントで使うよりも遙かにチャチなステージがあつらえてありました。
お寺の入口には、蓮池があります。
 ステージはとても低く、私は興味深げにそれを見ていると年長弟や村のちょっと不良っぽい若者達がさかんに私に向かってお前藝人だろ歌え歌って見せろと命じます。

 私も、挑まれれば後に引くことがない攻めの藝人ですからすぐに、おおようゆうた覚悟しとけよお前らモードになったのですが、いかんせん私が歌詞を暗記している泰歌謡などほとんどありません。これは藝人としての心構えの問題ではなく、ただ単に私の記憶力の問題です。私は日本語でさえ、サラで歌える歌などほとんどないし、自分が書いた文章すら忘れまくりなのです。

「歌詞がわからないから、わかれば歌う」

 と負け惜しみと取られても仕方がないお返事をしたのですが、不良っぽい若者の中のひとりが有り難いことに、家から歌本を持ってくる、とおっしゃいました。

 その後、まだステージ設営完了までは多少時間があるようでしたので、私はパパイヤを千切りにしている若い娘さん達の中に入っておもむろにソムタムを作り始めました。

 私は経験上自分のこの行為が、喩えてみれば外国人を泊めた日本人が朝起きてみると、すかさずその外国人が作ったみそ汁とご飯が海苔とお新香付きで出て来るとか、バースが岡田に将棋で勝つ、とかいうくらいショッキングで、アイデンティティーの脊髄を砕きトラウマを蹴り込む種類の行為だと知っているので、私は慣れた手つきで包丁と杵を操り、驚きの表情をたたえたまま千切りパパイヤと蟹の塩辛を石臼で突きまくり、それを皿に盛って見守っていたみなさんに得意満面で出来上がったソムタムを出したのですが、あろうことかその、パパイヤと茄子の隙間から這い出てきたのは一匹の、蛆のような形をした小さな虫、というより蛆そのものでした。

 この村の皆様が特別優しいのか、それとも私と同じように蛆くらいではものともしないのか、その真意は定かではありませんが、皆様は私が作ったソムタムを美味しい、と言ってお食べになりました。蛆が出てきたことをのぞけば、そのソムタムは近年にないくらいの出来で、私もカオニャオとともに美味しくいただきました。もちろん蛆は食べませんでした。

 まだステージもできてないし、歌本も取りに行かなきゃならないから、一度うちに戻ろう、と年長弟に言われて私たちは家に戻りましたが、戻った私たちを待っていたのは、信じられない勢いで降り出したスコールでした。二時間ほど止むのを待ったのですが、雨は凄い勢いで屋根のトタンを叩き、激しく鳴らせ続けます。

 こりゃ駄目だろう、と思って私は横になり、寺で食ったソムタムとカオニャオによって更に張力が増した胃壁を労ろう、と思ったのですが横になった瞬間、雨足が突然弱くなったために、再び皆様とともにお寺へ行くことに相成りました。


おうちの一階には水牛さんが住んでます。
(画像データ保存状態不良のため、画像が多少異常です。ご容赦下さい。)
 お寺に着くとステージは撤収されることもなく、更にコンパクトになって高床式になっているお寺の本堂の下にあつらえてありました。ステージ上の本堂ではプロの女性歌手らしき二人が、衣装とも私服とも判断が付かない格好で村の方々から勧められるがままにビールを飲んでいい気持ちになっておられます。いい感じのすさみ具合です。

 そのうちのど自慢大会らしきものが始まり、そこで私は歌本用意する、と言った少年から初めて、探したけどなかった、と言うお言葉を聞くことになりました。なくてもいいから歌え、と皆様はおっしゃいます。きっと雨で盛り下がったこの催しに歌詞もおぼつかない日本人をステージに上げ、さらし者にし盛り上げようとしておられるのでしょう。

 藝人として皆様の有り難い気持ちは痛いほど伝わってきたのですが、私はこんな事になるならバンコクにいるときからこういった状況をちゃんと説明しておかないレック様が悪い、自前で本買ってきたのに、と言う結論を導き出した後、本堂に上って床の隙間から見えるステージの上の、村の目立ちたがり少年少女達の緊張しまくり凍りまくりの歌を聴きその下手さかげんに日本語で悪態をつきながらそれはそれでそれなりに盛り上がっている村の方たちを見ておりました。

 そのうち眠くなって本堂でうとうとし始めますと、レック様が帰るわよ、とおっしゃるのでうちに戻ってあっさりと寝ましたが、目を閉じるとあのステージで村の皆様の言語的脊椎を折り、ガキどもにトラウマアタックかましていたはずの自分の姿が瞼の裏に浮かんで凄く悔しく、いつかてめえらヤッたるから見とれよ、と日本語でつぶやいたりしていて、なかなか寝付けませんでした。

平成十一年七月八日平成十一年七月十日に続く。
 
E-mail
(C) 2000 SHIRAISHI Noboru