藝道日記。(平成 12/03/09)
平成十二年三月九日

 朝から『天使の都』の下書き四枚。進まないので読書『次郎物語(一)』読了。進まない腹いせのように残っていた米を全部炊いて食う。

 犬巻カオル先生(以下、犬、と略)から電話。とりとめもない話をしていたが、何かのきっかけでレイプの話になり、私が前住んでいたアパートであったレイプ事件についてひどく怒られる。

 その時ウチには犬巻先生とレック様、知人女性二人総勢四人が遊びに来ていた。私の部屋があるフロアから女の泣き叫ぶ声が聞こえてたので、私は、ただごとではない、と思ったのでレセプションに、他の部屋がうるさいから何とかして下さいと、電話をした。
 


 犬はその時にそのレイプを止めに入らなかった、と言うことを電話で責めつづける。私は基本的に自分に関わってこない限りあまり他人事には干渉しない姿勢を取っているし、それがレイプかどうかボーッとしていて今ひとつ確証が持てなかったから簡単に首を突っ込むべきではないと思っていた、だが、電話でずっとそう言われ続けているとほんとに自分がとんでもない人間の屑のような気がしてきた。

 あの時私はヌンチャクを握って現場まで入って行くべきだったのだろう。そう思いながら電話を置いてシャワーを浴び、汚れ物を浸け置く。仕事をしていたので三日ぶりのシャワー。しかし、身体が綺麗になっても自責の念は続いていた。過ぎたことなのでどう償いようもないため、これはもう自分の身体を傷つけて、その痛みで償うほかにないと思う。
 


 で、最近ずっと痛んでいる親不知を抜くことにした。

 


 と、言っても今年一月に引っ越して来た私には、この町の歯医者がどこにあるのか知らない。しかし別に日本の歯医者をよく知っているというわけでもない。私はこの世に生を受けて三十年間、歯医者というものとほとんど関わりの薄い人生を送ってきたのだ。永久歯を抜いたことなど一度もないし、詰め物をしているのは一本だけである。

 しかしここにいても歯医者が見つかったり、往診して抜いてくれるわけではないのでとりあえず自転車を漕いで街のメインストリートへ行く。行った理由はいつも何となくそこで歯医者の看板を見ているような気がしたからだ。

 しかし、(歯いじり)、と書かれた看板のとこは閉まっていた。しょうがないので近くにいた(東京焼き)屋台のおばちゃんに訊く。おばちゃんは鉄板で焼けている甘い匂いのに玉蜀黍の粒を落としながら私の顔も見ずに、港近くの川そばに一軒ある、と教えてくれた。
 


 しかし行ってみると、看板に、(歯維持)、と書かれたここも営業していない。とりあえず万策尽きた私は少し離れた市場までチャリを漕ぎ、卵屋のおばちゃんに訊いた。訊いた理由は、おばちゃんがいつも山のように積まれた卵の前で暇そうにしているからだ。

 おばちゃんは、通りと川そばはやってなかった、という私の説明を聞き、じゃあんたあっちのお寺の前に一軒あるからあそこにしなさい、あっさり教えてくれた。痛い? と訊くと、痛くない、とおばちゃんは言う。

 おばちゃんの言葉には何の根拠もないような気がするが、よくよく考えてみればそもそも私の質問自体がおかしい事に気づく。おぱちゃんはぜんぜん悪くない。悪いのは私。私はおばちゃんに礼を言ってチャリで寺の前へ行く。
 



 すぐに見つかった赤い看板の前に自転車を停め、受付に行く。歯が痛いんです、受付のお姉さんに何の無駄もない言葉でそう告げる。お姉さんは髭面の日本人が来たことを訝りもせず、あらら、と言ったニュアンスの音声を発する。

 いくらかかるんですか? 一番重要なことなので最初にこの事を訊く。お姉さんは私に口を開けなさい、と命じ、ちっちゃい鏡を突っ込むとあらもうこれはかなり大変な状況だから詰められないわね抜いちゃうけどいい? それだったら初診だから二〇〇バーツ、と言った。

 


看板には、コルゲート、
と書いてありました。


待合室での私。 

 じゃATMでちょっとお金下ろしてきます。と言って一端歯科医を出て、外に行き金ゲットしたついでにドリアンアイス六バーツ食う。アイスが歯に浸みるがこの痛みともうすぐ別れることが出来ると思うと何となく淋しいような気もし始める。

 戻って待つ。暇なので待合室に置いてあった雑誌を読む。おそらく週刊女性、とか女性セブンとか言った種類の芸能雑誌なのだろうが、私にとって泰文字の書籍はまだすべて教科書のようなものなので読んでてあまり楽な気持ちにはなれない。

 じきに前の人が治療を終えたらしく、名前を呼ばれる。言われるとおりに治療台に横になり、じゃあ抜きますよいいですね、と言われて注射を打たれる。あまり緊張感なく暇なのでデジカメで寝たまま自分の写真を撮ってみた。



大人しく言われたとおりに
口を開けたら、
 

ぷちっ、て注射されました。
 しばらくしてから何か金属状のものを当てられたような気がして、上顎に力が加えられる。しかし、麻酔が効いているのか全然感覚がない。金属の皿に取り出された血塗れの歯を見て抜かれたことにやっと気づく。
 



 はいじゃあ口濯いでこれ噛んで、とガーゼのようなものを噛まされる。待合室で待ってて、と言わたので待ってると小さい袋が渡された。お姉さんは袋の中に入ったガーゼと薬を見せながら、このガーゼ、一時間経ったら一度変えて、あと、飯食って口濯いだら適当にガーゼ変えてね。あと、薬は痛いときに服んで、と説明され渡される。治療費は二百バーツちょうど。診察券もくれた。


藝名ではなく、
本名で書くように言われました。


 帰りの自転車を漕ぎながら、何時間構えまで親不知が生えていた空間に舌を伸ばすと何か去勢されたような気分になる。抜いたあとはぽっかり穴が空いていて、歯があった部分に出来た空間が淋しい。しかし、こう言うときはまず食うべきだと思い市場に寄る。医者は何食ってもかまわない、と言ってたから何食ってもいいはずだ。

 何を作るか決めないまま小松菜パッカナーとトマト、大根、タマネギを買う。全部で十六バーツ。家に戻る途中米が残り少なくなっていることを思い出し、隣の工場の裏、ドブの上に建っている集落の雑貨屋に行き、二キロ買う。三〇バーツ。
 


 その後家の斜め前の雑貨屋に行き、油を買おうとするが金が足りない。しかしおばちゃんが払いは明日でいいから油持って行きなさい。と言って下さったのでツケ払い。しみじみと近所の皆様の心遣いにより自分が生かされていることを自覚する。

 で、この雑貨屋には右耳にピアスしてるまだ小学校低学年の娘がいるのだが、この娘が私が買い物に来るたびに私を指さして、日本人、と言いやがるので、その度に、泰人、と言い返すようにしていたのだが、最近は泰人、と言い返されるのがいやなのか言わなくなった。
 


 

 どうやらご近所どうし仲良くしなければならない、と言うことをようやく理解したようだ。泰語の読み書きに関してはこのくらいの子供が私のライバルなので、日本人呼ばわりされたくらいで後には引けない。この娘に限らず日本人呼ばわりされたら泰人呼ばわりして返すくらいのキアイが藝人として不可欠だと思う。

この日終わり。


抜いた歯を磨いちゃいけませんか?

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