藝道日記。(平成 11/04/10)


注・通貨の日本円換算はすべて1バーツ3円、1ドル3800リエル=35バーツ=115円、1バーツ110リエルと言うのを基準にして下さい。正確ではないですが、最近はだいたいこんなモンです。

平成十一年四月十日

この日の移動経路

 
 

切符売り場。
 朝、目が覚めたらアランヤプラテート行きの窓口に人が並んでいたので、立ち上がって慌てて並ぶ。ちゃんと起きることが出来た自分に感動する。

 成田空港で出国手続きを済ませた後、搭乗券を持ったままカウンターのど真ん前でアナウンスで何度呼ばれても飛行機が出てしまった後まで起きなかった過去を思い出し、私も人間として成長したものだと思う。

 バス代は144バーツ(432円)。エアコン付きである。乗ってみると凄く快適なせいかすぐに眠ってしまい、アランヤプラテートに入る一歩手前、パスポートチェックのために国境警察が入ってきて目が覚める、おそらく私のようなどこの馬の骨ともわからない外国人の身元を確認するためだろう。何人かタイ人がIDカードを出して見せていたが、私のパスポートはなぜかチェックされなかった。

 八時くらいにとどこおりなくバスはアランヤプラテートのバスターミナルに着いた。すかさず屋台でカオ・パット(炒飯)を食う。20バーツ(約六十円)。その後バイクタクシーを三〇バーツ(約九十円)でチャーターし、国境へ。
 国境はクメール人でごった返していて、私はようやくここに来て初めて、自分がカンボディアに行くのだという事を実感する。
 

クメール人がいっぱいの国境。

国境のガキ。

 ぐっすり眠っていたせいか、私は何も考えないことなくここまで移動してきたようだった。



国境の目印。

ものを運ぶクメール人達。

 
 無事出国と入国を済ませて、国境を後にした途端、シュムリアップ行きトラックの客引きが声を掛けてきた。一応車の前まで着いていき、値段を聞くと、
「明日から正月のラッシュがはじまって……」
 と聞いてもいないことをほざきだしたので、その前置きを遮るように、もう一度、
「いくらだ?」
 と聞くと、四百バーツだ(約千二百円)、とすまなそうに答えたので、「ノーサンキュー」と言ってとっとと車置き場を後にする。

 少し歩くと、再び違う客引きが話しかけてきたので値段を聞くと、シソフォンまで一〇〇バーツ、そこからシュムリアップまで一五〇バーツ、あわせて二五〇バーツ(約七五〇円)だという。

 その若い男の客引きとそこから更に交渉したり、新しい他の客引きとたわむれたりするのは、起きたばかりの自分にとても悪いような気がしたので、そのままその客引き君についてゆく事にする。
 最近の私は起き抜けの自分にとても甘い。ついでに言えばすぐ空く小腹にもかなり甘い。

「日本人が二人いるんだ」
 と彼は言い、その二人がいるゲストハウスまで私を連れてゆく。ゲストハウスに着くと二人はまだシャワーを浴びているからここに座って待っててくれ、と言われて大人しく待つ。
 私をここに連れてきた客引き君は純粋なクメール人のようだが、ゲストハウスの入口の広間に座っているボスらしいおっさんは中国系のようだった。おっさんは楽しそうにテレヴィから流れているクメール語のカラオケを見ていた。

 通りを挟んだ前の家には、どういった字だったかよくは思い出せないが、自動車部品取引場、というような意味の漢字が書いてあった。
 こういった漢字をあちこちで目にする度に私は、中国人というものは中国に帰りたいとは思わないのだろうか、とか、どうやって中国からここまで来たのだろうか、と考えるが、面倒くさいので実際に聞いてみたことはあまりない。
 しかし、いっぺん一〇〇人くらいの中国系をずらっと並べて、「どこからきて、何をしようとしているのですかあなた達は」と一気に聞いたらさぞかし私自身が混乱するだろうと思う。

 やがて日本人二人がゲストハウスの奥から出てきた。二人ともあまりいい男ではなかった。私は女に関してはあまり厳しくないが、こと男に関しては面食いで雰囲気を重視する傾向がある。ダサいヤツは許せない。時折怒りすら感じる。
 そう言った個人的な事情もあり、なんとなくめんどくさかった事もあったので、私はタイ人のフリをすることにしたが、客引き君がすぐに言わなくてもいい私の国籍などをその二人にあかしてしまい、挨拶させられるハメになる。ときどき私は無性に日本人と話すのがイヤになることがあるが、そう言うときに会った方は非常に運が悪い人だと思うとともに申し訳ないとも思う。


 
 バイタク二台に二人乗りしてピックアップトラックのターミナルへ連れてってもらい、前の座席に客引き君と一緒に乗り込む。前の座席は運転手の隣でクッションも柔らかく快適である。二人の日本人は後部座席に四人、スシ詰めになっている。車内はエアコンが効いていて涼しい。どうやらタイ語が話せるらしい客引き君と少しタイ語で会話して、会話にも飽きたのでタイ語の本を読んでいたらすぐに眠くなる。
 タイ語の本は久しぶりに読む大江健三郎の小説くらい、眠りを誘うようだ。

 断片的にあらわになる自分の意識の中で、どうやら自分が隣の運転手に頭突きをかましているのは夢ではないことに気づく。意識に紛れ込んでくる、そんなことをしてはいけない、という気持ちも眠気には勝てず、私の頭は運転手の腕にぶつかり続けていた。

 さすがに運転の妨害になると思ったのか客引き君が窓際の席と替わってくれる。
 おそらく二時間ほど経ってシソフォンに着く。時計を持っていないので正確な時間はわからない。着いた途端にクメール人のザルを担いだ物売り達がわらわらと押し寄せてくる。車を降りて豆乳を氷と一緒にビニール袋に入れてもらい、5バーツ(約十五円)払う。当然タイバーツはここでも通用するようだ。しかしこの先、バーツとリエルとドルを換算しながら経済的に移動を進めて行かなければならないのかと思うと、かなり頭が痛い。電卓を持ってきて正解だったと思う。


 

ほとんど落ちかけている鉄橋。

対向車が巻き上げる埃。

 
 後部座席のクメール人二人は降りたが、女の子が一人乗ってきたせいか、客引き君と私は後部座席に追いやられる。後部座席はいきなり狭い。女の子はゆったりと前の座席で蓮の実から種をもいで口に入れている。私は女の子のそのゆったりとした様子をうらめしく思ったりはしなかったが、食べている蓮の種は食べてみたいと思いながらケツのでかい日本人が二人も乗ってるからきついんだよ、と自分のことを棚に上げて心の中でひとりごちる。。
 走りはじめて一時間も経つと、しだいに道が厳しくなってくる。そして、座席の狭さよりもシートに接触している部分が凄く痛くなりはじめる。

 

ケツに響くデコボコの道。

がんばれ僕らのピックアップ。

 


軽やかに立ちションするオヤジ。
途中に一度だけ休憩が入り、その間、春巻き二本(五バーツ)を食べる。食べながら歩き回ってケツを休める。こんなに痛いのだったらきっと荷台に乗っている人たちはさらに大変なのだろうなと思うが誰一人として車から降りてケツを休めようとしている人はいない。途中で車が停まったときにたち小便をしているオヤジの動きを見たが、素晴らしく軽やかだった。もしかしたら単に私のケツが弱っているだけなのかもしれない。

 食事休憩が終わり、再び車は走り出したがそれから四時間、ケツの痛みは激しく増し続けた。途中でラジオからソーラン節のクメール語バージョンが流れてきて、それに少しだけ心救われた。あんなにアップテンポでポップなノリノリのソーラン節を私は未だかつて聴いたことがなかった。

ようやくシュムリアップに着く。

 一人だけアプサラゲストハウスの前で下ろしてもらい、一泊二ドル(二百三十円)の部屋にチェックインし、宿の前で洗剤を買って洗濯とシャワー。買ったばかりの洗剤は水を吸収すると恐ろしいほどに熱を持ち、まる二日間野ざらしになっていた私の身体からは恐ろしいほどに垢が剥がれ落ちた。

 こんなに汚れたりケツが疲れたりするのであれば、この先プノンペンまではトンレサップ湖をスピードボートで下る一般的なルートを取った方がいいかなと思うが、手持ちの金を大まかに計算してみるとどうやらそんな贅沢は出来そうにない。

 結局またプノンペンまでピックアップで行くしかないのか、と思うと立ちくらみがして一瞬だけ目の前が真っ暗になるが、冷水で頭を冷やし、気を取り直してシャワーから出て、このゲストハウスに奥野正雄氏が設置した情報ノートを読む。バンコク、プノンペン、ここ、とこれで私は奥野正雄氏が設置した情報ノートを全部制覇したことになる。実際に会ったときにはそうでも無かったが私はもしかしたら潜在的に奥野正雄氏のことが好きなのかもしれない。

 とにかく所持金の都合でおそらくアンコールワットも今回は見ることが出来ないだろう。まったく、長崎に来て平和公園を見に行かなかったくらいの騒ぎではない。実にバカみたいな事だと思うが、私がバカなのは仕方がないし、まあ、今回は予行練習みたいなものだと思えばいいか、という風に気持ちを整理する。いきなり押し掛けて脅かしてはアンコールに申し訳ない。

 下のレストランに降り、しばらく日記を付けていると、何故か突然客引き君が現れる。引率してきた日本人二人をほっといてきたようだ。
「あなたと話がしたかった」
 と、客引き君は言う。
 話をしていると客引き君の英語がしだいにフレンドリーなタイ語になってゆく。
 客引き君は夜9時からナイトクラブに行くんだけど一緒に行かないか、と提案してくるが、そう簡単に弾ける事も出来ない経済状態故、やんわりと断る。

 客引き君は肩を落として去っていった。どうやら私にかなり興味があるらしい。もしかしたらホモかもしれない、と残念そうな客引き君の背中を見ながら、私はいまのところあなたには興味がないの、ごめんね、と心の中で呟く。

 そのままそのレストランでフライドライス(千五百リエル=約四十五円)を注文し、醤油とか、ケチャップとか、胡椒とか、塩とかいろんなもので味付けして食ったが、ケチャップが一番私の口に合った。
 トマトは偉大だ、
 と、心の底からそう思う。レーガン大統領がアルツハイマーになったのは、きっとトマトが嫌いだったからに違いない。
 加えて、久しぶりに食ったカンボディアの胡椒にも感動する。

 レストランのテレヴィではタイのドラマをやっていた。家が貧しくて学校に行くことが出来ない農村の少女がやがて歌手としてビッグになってゆくらしいという筋のドラマだったが、バンコクで一度見たので、セリフがクメール語に吹き変えてあるのが妙に新鮮に感じられた。

 そのままそこで日記をつけていると、食事をしていた欧米人の宿泊客がしだいに部屋に戻りはじめ、私一人になる。宿で働いている男の子達が宴会を始めるらしく、ワインを買ってきてた。
「一緒に飲まないか」
 と、彼らのうちの一人が誘ってくれた。手にしているワインは国産のハーバル・ヘラクレスワインである。思わず一年半ほど前の、カンボディア国産ワインにまつわる思い出が頭をよぎる、がすぐに忘れる。これを書いている今でもどういう思い出だったか思い出せない。がしかし、あまりいい思い出じゃなかったことだけは確かだと思う。

 そういったありがたい誘いは極力断らない方針を取っているので、当然ご相伴にあずかることにする。つまみは臓物のサラダと野菜の炒め物、ライオン系モツマニアの私としては相手にとって不足はない。と、いうより私は長崎県西彼杵郡多良見町に生をうけて以来二十九年、どんな食べ物であろうが相手に背を向けたことはない。出されればほぼ何でも食う。無差別毒殺などがあれば、真っ先に死ぬタイプだと自分でも思う。


ヘラクレス・ワインで乾杯。

手前のどんぶりがモツサラダ。

 
 同じインドシナ系の民族であるせいか、クメール人は傾向的にタイ人と同じようにすぐ酔っぱらう。皆すぐにハッピーマンになってしまい、小型のスピーカーが付いたウォークマンを持ってきて机をどかし踊り始める。
 お前も踊れ、と言われて踊るが、どう考えても踊るより目の前で踊っているハッピーメンを見ていた方が遥かに楽しい。第一、私はまだ全然酔ってない。

 ケツが疲れていたこともあって少し踊ったフリをしたが、すぐにやめる。そのうち、狂ったように踊りまくるクメール人少年のうちの一人が曲に合わせて股間の前で右手を上下させながら英語で、


 
 ♪俺は去年までダンスを習っていた三ドルくらい金があったら女を買いに行くんだ女のあちこちにキスするのが俺は好きだでも臭いから腰から下にはキスしないちゃんとゴムはつけるHIVはいらない♪

 

踊るクメール人の若い酔っぱらい。
 と歌うように叫び出す。クメール人の英語でのラップというとてもありがたいものを聞かしていただき、十分満足した私は、三人に、ごちそうさま、お休みなさい、と言って部屋に戻ることにした。

 部屋に戻る途中のテラスでは日本人旅行者が大麻を煙草に詰めていた。袋に入った大麻の葉は、かなりの量だった。目が合うと私は何故か、
「これはこれはまた」
 などと意味もなく言ってしまう。
「これ、買いすぎちゃってあまりそうなんですけど、タイに持って入国できますかね」
 その若い日本人は無邪気に聞いてきたので、
「みつかんなきゃ大丈夫でしょ。見つかったら大変だけど、じゃおやすみなさい」
 と当たり障りのない誠意ある回答をして部屋に戻る。

 二十三時三十分就寝。

この日使ったお金=約一五三二円。

平成11年4月9日に戻る。平成11年4月11日に続く。


E-Mail:hinkaw@chan.ne.jp