藝道日記。(平成 12/10/23)
平成十二年十月二十三日(月)。

   
 とりあえず朝になったらしい。バスはもう停まってて、ナコンシータマラートのバスターミナルに着いていた。あたくしは半年ほど前、ここで突然友人の犬巻カオルが消えたことを思い出しながら朝の街を歩き始めた。バスターミナルは半年前と何一つ変わっては居ないように思えた。バイクタクシーが盛んに話しかけてくるがあたくしは全部断った。距離感の解らない場所で料金交渉制の乗り物に乗ることはあまりいいことではない、と思ったからだった。
 
  
 何の仕事でもそうだが、あたくしは来たばかりでまだものの価値が解らない人間を相手にしたがり、安易に金子を得ようとする人間をあまり好まない。そういう労力の割に高い効果の営業を重視する人間じゃなくて仕事内容の品質を向上させようと思っている人にこそ金を落としたい、といつも思う。
  
   
 しかしバスターミナルからあたくしが持っているメモ用紙に書かれている住所までは、そんなあたくしの意思を挫きそうになるほど遠い距離があった。とりあえずあたくしは大通りまで歩いてそこに現れた屋台で飯を食った。屋台のおばちゃんが操る言葉が微妙に聴きづらい。

 ははあこれが南部訛りのタイ語というものやな、とあたくしは思い、立ち上がって金を払うと、おばちゃんにメモ用紙を見せ、そこに書かれている場所までの行き方を教えて貰ってそのとおりにひたすら歩き続けた。
 

  
 歩いている途中、住所と一緒にメモしておいた携帯電話番号に電話をしてみた。あたくしは今日、その電話を持っている男に会うことになっていた。ちなみにあたくしはその男と会ったことはない。写真は見たことがあるが電話で数回話し、メールを交換したことがあるだけだった。
 

  

   
 彼の仕事は長距離の牛乳配達だった。首都から南部にかけて定期的にトラックで牛乳を運んでいる、と聞いていた。その話を聞き是非紹介して欲しいと頼み込んで紹介して貰ったのだ。あたくしはそのトラックに乗せて貰い牛乳と一緒に首都から南部まで行ってみたい、と思っていたのだった。ただ残念ながら、今回は彼の仕事の都合や他の用件もありあたくしの日程があわず、残念ながらひとりで南部に来ることになったのだ。
 
  
 受話器の向こうでアナウンスが聞こえた。彼の携帯は電源が入っていないか、圏外だということだった。

 仕方がないのでとりあえず何度か道を聞きながら、ひたすら歩いた。歩いているうちにぼやけていたあたくしの頭が少しずつはっきりし始めた。時計を持たないので今、この瞬間の時間が何時なのかわからないが、制服を着た通学途中の女子高生に何度か時間を聞いたのでおそらく女子高生が通学するくらいの時間である筈だった。
  

   
 メモの住所に従って人に場所を聞きながらあたくしは、これから訪ねる田中良夫(仮名)様の家を探した。歩いてゆくと家より先にジムが見つかった。ジムは鍵がかかっていて中には入れず、建物の中では誰も起きている気配がなかった。

 仕方なくあたくしはもう一度メモに書いてある住所を探す。書いてある名前の通りはすぐに見つかった。番地以外はもうすべて見つかっていた。ただ田中良夫(仮名)様が書いた番地の建物だけがなかった。何度もその付近にいる人たちに田中良夫(仮名)様の顔や歩き方まで説明して聞いてみるが誰も知らないと言う。
 

  
 なんで近所の人間の近所に住んでいる人間の顔や歩き方や家を知らんのや、とあたくしはひとり関西弁で憤るが、考えてみればあたくしもあたくしの地元の人たちがどこに住んでなにをしているのか良く知らない。冷静に考えてみれば人は意外と自分の近所に住んでいる人について知らないものである。  
   
 田中良夫(仮名)様本人の口からこの土地で女子中学生から手紙を貰ったりすることが何度かあったと言う話を聞いていたので、あたくしはカマをかけてパジャマ姿で庭に出ていた女子中学生に聞いてみた。その可愛いパジャマを着た女子中学生は、あっさりと事細かに田中良夫(仮名)様宅までの道を教えてくれた。田中良夫(仮名)様の女子中学生人気は本人が言う以上に侮れない、と思った。
 
  
 そして言われたとおりの場所にはとりあえず部屋があったが、しっかりと鍵がかかっていた。おそらく時間的にランニングなんやろと思い、あたくしは玄関脇の鉄格子がはめられた窓から部屋の中を覗く。鉄格子の間から見えたのはまぎれもなく田中良夫(仮名)様の部屋だった。

 鉄格子の作りは凄くおおらかだったのであたくしはその隙間からとりあえず小さい荷物を部屋の中に落とし込んだ。そして、おじゃる丸参上、とメモ用紙に泰日二カ国語で書きそれも落とし入れた。
  

   
 泰語で書いたのは、もしまかり間違ってここが田中良夫(仮名)様の家でなかったら住んでいる人が吃驚するだろうと思ったからだ。しかし、よくよく考えてみれば泰語で書いてあったとしても他人がその手紙を目にしたら不気味に思うだろう、と言うことにすぐ気づいたが落とし込んでしまった今となってはもう遅かった。

 とりあえずネタの仕込みは終了したものの、ここにいたとしても事態は何一つ変わらないのであたくしは再度ジムに行くことにした。ロードワークだったら終了後、ジムで練習するはずである。泰式拳闘の選手はたいていロードワークしてから朝、練習する。
 

  
 荷物が少し減って楽になったあたくしはとりあえずジム迄歩き、ジム前のベンチに腰掛けて待つ。ジムは相変わらず鍵がかかっていて人の気配がない。しばらくすると右側から見慣れた特徴ある歩き方で、このあたりでは不自然なほど白い肌の男が歩いてきた。田中良夫(仮名)様だった。

 あたくしは見つからないようにすぐ小道脇の雑貨屋に隠れ、飴を二個買った。試合を見に行くとは言ってあったが、こんなに早く来るとは伝えてなかったので、正面から顔を合わせるよりも背後から脅かした方が礼儀正しい遇し方だと思ったのである。
  

   
 しかし、脇道に入ったあたくしを田中良夫(仮名)様は見逃さなかった。あたくしは飴代を払っているところを背後から無言で田中良夫(仮名)様に突っ込まれる。とりあえずどうボケ返していいのか解らなかったのであたくしは買ったばかりの飴を一粒、コピコキャンディ食うか? と泰語で言いながら田中良夫(仮名)様に渡した。田中良夫(仮名)様は黙ったままコピコキャンディを開封し、口に入れる。
 
  
 二人でジムに行くが、いつまで経っても鍵は開かない。どうやら朝練は休みのようだった。仕方が無く田中良夫(仮名)様と二人で田中良夫(仮名)様宅に戻る。部屋に入ってみるとあたくしの手紙が寂しく裏返って落ちていたのですかさず拾って破棄した。部屋の中は凄く広かった。四駆のワンボックスカーが一台余裕で入るくらい広い。小規模の自動車整備工場が営業できるほど広い。
  
   
 田中良夫(仮名)様に家賃を聞くと一五〇〇バーツ(レートは農民銀行でご確認下さい。)という声が帰ってきた。さすがに地方都市だと思う。都心と違って安い。 

 とりあえず田中良夫(仮名)様はあたくしを部屋に残したまま奥の浴室に水を浴びに行った。田中良夫(仮名)様が出てくるのを待ってすかさず二人で朝食に行くことにした。首都を出る前に共通の友人から、俺も会いに行きたいけど行けないから、田中良夫(仮名)様と一緒にこの金で飯を食うように、現金を預かっていたのだ。だから、あたくしは田中良夫(仮名)様と飯を食わなければならない。
 

  
 とりあえず朝からたくさん歩いたあたくしはすごく疲れていたので二人前ほど飯を食った。ちなみに朝からあたくしより間違いなくたくさん走った田中良夫(仮名)様は一人前しか飯を食わない。減量? とあたくしは聞いた。いや今回は計量ないから食え食え食え食えって言われてます。と田中良夫(仮名)様は答えた。どうやら胃腸の調子が多少悪いらしい。田中良夫(仮名)様は時折試合前、胃腸の調子を崩すことがある。
  
   
 食い終わると家に戻って水浴びと洗濯をさせて貰う。浴室には四角柱状の煉瓦が置かれていた。水浴室から出てくると、田中良夫(仮名)様に、排水孔の上に煉瓦をおいといてください、と言われる。煉瓦で蓋をしておかないと排水孔から出てきた鼠が部屋中にウンコするんです、と田中良夫(仮名)様は説明する。蓋をしておかなければ部屋の床がウンコだらけになり、そのウンコを片付けなければならないらしい。まるで八十年代前半のヴィデオゲームのような部屋だとあたくしは思った。
 
  
 洗濯物を干し終わり、田中良夫(仮名)様にナコンシータマラート中心部の地図を書いて貰い、ひとりで外出する。ネット屋を見つけねばならないし、長距離牛乳配達に電話もせねばならない。

 あたくしは地図の通りにとことこ歩く。長い距離を農民銀行まで歩き、ATMでお金を引き出した。途中ネット屋が二軒ほどあったので、接続させて貰おうと掛け合うが、どこもLAN接続は管理者の許可を取らないとダメだ、と言われる。そして当然のようにその許可すべき管理者は現場にいなかったりする。
  

   
 一体いくつの河を越えたらボスに会えるというのだろう? あたくしは、ボヴ・マーリィ・アンド・ザ・ウェイラーズの"Burnin' and Rootin"を口ずさみながら、ロビンソンオシエンデパートまで歩き、そこでシュークリームを買って食いながらひたすらまた歩く。歌いながら歩いているうちにネットに接続することを忘れ、電話しなければならないことを思い出す。

 デパートの前、公衆電話からあたくしはまた、長距離牛乳配達の携帯に電話した。今度は圏外でなく、電源も入っているようだが誰も出なかった。仕方なく歩いて田中良夫(仮名)様宅に戻ることにする。地図に書かれてない道をわざと選んで歩いてゆくと、沼地の脇を通ることになった。
 

  
 そこにはトカゲや鳥などが何個かの籠に入れられていてそのそれぞれに名前が書いてあった。そしてその籠のまわりで家鴨や鶏が放し飼いになっていた。もしかしたらここはプチ動物園のようなものかもしれないな、と思いながらその真ん中を突っ切って歩いていると、腰ほどの高さを持つ水鳥の群がいた。色は白くなかったがもしかしたら白鳥なのかもしれない、とあたくしは思った。

 あたくしが近づくとあろう事かその水鳥は逃げたり飛んだりすることなく、羽根を力一杯広げて威嚇の姿勢を取り、あたくしに近づいてきた。なに入ってきとんねん出ていけボケ、と言うことなのだろうと思う。何十年かぶりに鳥類に身体を張って怒られたあたくしはとりあえず水鳥さん達の邪魔にならないように隅の方を歩いて田中良夫(仮名)様宅に戻った。
  

   
 とりあえずささやかながら居候させていただく御礼として田中良夫(仮名)様にシュークリームを渡し、もしかしたら今夜は戻らないかもしれません、と告げ、あたくしは再び外に出た。パソコンの接続を確保しておく必要があったし、長距離牛乳配達にも再度電話しておかないければならない。もしちゃんと長距離牛乳配達に会えたら、遅くまでお酒を飲むことになるかもしれなかった。
 
  
 近所にサイバーカフェがあるのを確認していたのでとりあえずそこに行って頼んだらあっさりLAN接続させて貰えることになる。しかし設定にあっさり失敗する。仕方がないのであたくしはダイヤルアップ接続をさせて欲しいと申し出た。あたくしは全国七十六県にアクセスポイントを持つプロヴァイダのアカウントを持っていたのだ。電話さえあれば泰国内どこからでも接続できる。
  
   
 あっさり申し出は許可されあたくしは電話代五バーツのみでしっかりメールをゲットすることが出来た。せっかくなのでついでに自分のサイトのお客様ご相談窓口に書き込んでおいた。そして御礼を言って外に出て、コンビニの前でもう一度長距離牛乳配達の携帯に電話したら長距離牛乳配達はあっさりと電話に出た。 

 長距離牛乳配達は、バイタクで宿まで来い今お前が居るそこからなら十五バーツくらいだから、と言う。あたくしは受話器を置き、目の前にいたバイタクを停めた。バイタクはあたくしを乗せて行先を聞くと、勝手にとっとと走り始めた。そして着いたところは午前中ネット屋を探して前を通ったホテルだった。
 

  
 初めて会った長距離牛乳配達はとりあえずホテルの裏手にある屋台にあたくしを誘い、腹減ってないか? と聞く。そう言われると減っているような気がしたのであたくしは豚肉焼き飯を注文し食う。さくりと食い終わり金を払おうとすると彼が奢ってくれる。

 そのままそこで彼や彼の仲間とビールを飲んだ。豚のラーブと、でかいタニシを食いながら。ダラダラとずっと飲んだ。でかいタニシはホーイゴーンと言い、今の季節しか手に入らないのだ、と長距離牛乳配達は言う。
  

   
 他の運転手仲間も集まってきて酒盛りになり、彼はまわりの仲間にそのでかタニシを盛んにすすめるが、他の人はあまりその泥臭いでかタニシに手を着けない。しかたなく長距離牛乳配達とあたくしの二人で大量のでかタニシをダラダラと食う。

 食いながらあたくしは、これはもしかしたら危険な食べ物かもしれんな、と思うがしっかり火を通してあるようなので安心して再び狂ったように食う。腹が満杯になり、小休止した頃に会計をしようとすると、俺が払うから払うな、と言われる。
 

   
 二人ともほろ酔い気分のまま何時間か経過すると、長距離牛乳配達がちょっとドライヴしようと言う。あたくしは言われるがままに駐車場まで歩き、牛と牛乳パックの画が描かれたトラックの助手席に乗った。高い助手席は座ってて気持ちがよかった。 
  
   
 ショッピングセンターに着いて車を停めると駐車場脇に行き、二人並んでアウトドア放尿する。ちょうど下着を忘れたて来たことに気づいて、あたくしはショッピングセンターに入り、九十三バーツのパンツを三つセットで買った。

 再び車を走らせながら、今日は家鴨を潰して食うから、帰らず泊まっていけ、と彼は言った。今日はまだメルマガもサイトの更新もやっていないからあたくしはまだ田中良夫(仮名)様宅に戻って仕事したいと思っていたから、あたくしは彼にその旨を告げる。
 

  
 しかし屋台に戻ってみると屋台にはさらに人が増えていた。集まっているのは某滋養強壮ドリンクを輸送している長距離トラック運転手仲間ということだった。その運転手達はその滋養強壮ドリンクをあたくしに飲ませようとする。どうしてそんなに飲ませようとするのか理由はないようだった。

 あたくしは軽く五本以上飲んで頭が、しゃっ、きーん、状態になり、出された家鴨のラーブとスープを死ぬほど胃に蹴り込む。ビールも飲む。出てきたつまみの豚耳焼きも食う。
  

   
 皆あまり食わず、やたらとあたくしに食わせるのであたくしは胃が充血し脳内の血流が乏しくなり何も考えられなくなってもう何がなんだかワケが解らなくなる。どうやら毀れたようなのだがあまりあたくし自身その自覚がない。

 泊まってけ今日は、と再度長距離牛乳配達に言われ、あたくしはとりあえず頷いた。腹を括るとあたくしは気分が楽になったので更に脳死状態のまま食い続け、ほとんど意識がない状態で彼の部屋に行き、朦朧としながら水を浴び、とっとと眠った。
 

  

  


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