藝道日記。(平成 12/10/24)
平成十二年十月二十四日(火)。

   
 あたくしが目を覚ますと長距離牛乳配達も目を覚ましました。あたくしとほぼ同時でした。あたくしはとりあえず彼にお別れを言ってホテルを出ました。午前六時ちょっと前、立派な朝帰りでした。腹はまだ重いままでした。

 あたくしは腹が凭れないようにゆっくりと時間をかけて歩き、田中良夫(仮名)様の部屋に戻りました。部屋のドアには再びがっちりと鍵がかかっています。間違いなくランニングでしょう。
 

  
 あたくしは仕方が無くジムに先回りです。するといい感じのおっちゃんが話しかけてきました。見た目普通のおっちゃんですが、短パンにTシャツという軽装です。あたくしはもしかしたらこの方が田中良夫(仮名)様から聞いた先生その人なのかと思いました。なんとなく昨日田中良夫(仮名)様に聞いたとおりの雰囲気です。
  
   
 先生はあたくしが田中良夫(仮名)様の試合を見に来たとわかると、いきなり田中良夫(仮名)様の拳闘技術について説明しはじめました。そしてその先生の口から出てくるお言葉は素晴らしく思想的な示唆に満ちあふれたお言葉なのです。

 初対面の挨拶から四分も経たないうちに先生の口から、人生、とか、精神、とか方法論、とか言う概念的単語が矢継ぎ早に飛び出し始めます。田中良夫(仮名)様が昨日言っていたとおり、首都のジムにはあまりいないタイプの指導者だとあたくしは思いました。
 

  
 先生は戦う者の精神は普通の人と同じじゃない、とおっしゃいます。あたくしはなんとなくその意見に賛同しかねたので初対面からまだ何分も経っていない先生に向かって、戦う者は毎回毎回の仕事が大きな試験のようなものですから、その結果がその後に大きく影響いたしますが、普通に働いている普通の人は毎日小さな試験があるようなものなので長い目で見れば同じ様な精神力が必要となるのではないでしょうか? と言いました。
  
   
 先生は、一瞬だけ表情を真顔にして、すぐまたにこやかな笑顔に戻し、あ、と、う、の中間のような、あぅ゛〜、という声を発されて、あたくしの肩を叩き、お前はよくわかっている、とおっしゃいました。よくわかっていると言われてもあたくしにはまったくもってよくわからない展開です。
 
  
 そのうち田中良夫(仮名)様が戻ってこられました。ジムの中に入って田中良夫(仮名)様は絶対に一週間は洗ってないと思われる土色の包帯を拳に巻きはじめられます。不潔な環境だと全身に発疹が出るという持病を持った田中良夫(仮名)様を知っているあたくしはその様子を見て驚きました。
  
   
 ジムの中に入ってみてまず驚いたのは練習に必要な消耗品の設備です。不潔な包帯もそうですが、グローブも革製のものなど数えるほどしかありません。ほとんどの選手がそのあたりのデパートで売っているようなビニール製のおもちゃを使って練習しています。こんなおもちゃのグローブをみんなで使っているようなジムなどわたしはいままで見たことがありませんでした。
 
  
 先生はずっと田中良夫(仮名)様の横に付きっきりです。バックを打つときも、シャドウボクシングをするときも、ちょこちょこと小さい身体を田中良夫(仮名)様のまわりで移動させ、凄く高度な技術的忠告をなさいます。田中良夫(仮名)様は練習しながらずっと、その先生の言葉や動きに反応しなければならないのです。頭が休まるヒマなど無いようでした。
  
   
 朝練が終わって二人でうちに戻ると、しばらくして先生が部屋に入っていらっしゃいました。ドアの向こうに姿を見せたかと思うと先生は、開口一番、相手が膝で来たらどうする? とか、組んで来たらどうする? とか言った種類の技術的質問を田中良夫(仮名)様に投げかけられます。田中良夫(仮名)様は家にいても頭が休まりません。
 
  
 隣で座っているあたくしにもその示唆にみちみちたお言葉は聞こえてきます。先生の言葉は少し小耳に挟んだだけでも凄く頭を使わねばならないのです。あたくしは田中良夫(仮名)様の脳がブーンと言う機械音を発てて回りはじめたような気がしました。
  
   
 そして昼の練習になりました。昼の練習ではミット練習や首相撲もやります。しかし、みんながみんなおもちゃのグローブをはめて練習しているので端から見ればで見たら若手お笑い藝人がボクシングコントをやっている様な感じもします。


 

  
 座って見学しているあたくしに先生は、リング脇に行って田中良夫(仮名)のミット練習を見ろ、とおっしゃいます。あたくしは言われるままリング脇に行きました。リングは高床式の一階に作られていて、ものすごく天井が低いのです。おそらく一八四センチ(推定)以上の身長を持つ選手が練習したら、きっと天井の蛍光灯に頭をぶつけてしまうことでしょう。
  
   
 あたくしはこれまで何度も田中良夫(仮名)様の試合や練習を見てきましたが、今、天井が低いそのリングの中でミットを蹴っている田中良夫(仮名)様の動きは明らかに今まであたくしが知っている田中良夫(仮名)様の動きとは違います。技術的な技の組み立てももちろんですが、目立って感じるのは技の一発一発に威力が増していることです。

 それは体重が四ポンドほど増えたのが理由ではないようでした。明らかにあたくしの目の前でミットを蹴っている田中良夫(仮名)様は以前の田中良夫(仮名)様よりも力強くなっておられました。
 

  
 先生はリング脇から田中良夫(仮名)様をまるでリモコンを持った正太郎君のように言葉で操作なさいます。そしてしきりにあたくしに向かって、田中良夫(仮名)は良くなったか? とお聞きになられます。あたくしは、良くなっていると思う、だけど試合でどう動くのかはまだちょっとわからない、と正直に答えました。

 先生は満足げに、あぅ゛〜、とおっしゃるとにこやかにあたくしから視線を外し、すぐにリモコンを持った正太郎君に戻られました。リング内で攻撃している鉄人もしっかり正太郎君の操作通りに動いています。
  

   
 首相撲の練習になると田中良夫(仮名)様の動きはさらにあたくしが知っている田中良夫(仮名)様の動きと全く違ってしまっていました。捌きながらではなく組みながらいい位置をとるスタイルに変わってしまっているのです。

 先生はまたあたくしのところに来て、田中良夫(仮名)の首相撲は良くなったか? と聞かれます。あたくしは、はい、と正直に答えました。組んでからの能力は突いたり蹴ったりする能力より確実で試合に出せるようなので、試合でどう出るかはある程度想像できます。
 
  
 あたくしは三日後に迫った田中良夫(仮名)様の試合が更に楽しみになりました。去年の七月十三日に負けてから、選手層の厚い南部でキャリアを積む、と言って南部に渡って以来僅か一年足らずで田中良夫(仮名)様は四つのノックアウトを含む六連勝と言う結果を残されました。

 今年の春、怪我をして一旦日本に帰る途中、首都で会ったときに、ナコンのジムでいい先生に出会って、パンチも蹴りも全部一からやり直させられた、と嬉しそうに語っておられました。その時の田中良夫(仮名)様は一年で見違えるほど前腕に筋肉がついていて、あたくしはどうしても一度、新しい田中良夫(仮名)様の試合を見てみたいと思っていたのです。そして、今回、査証の更新と田中良夫(仮名)様の試合を見るためにあたくしは半島を南下したのでした。
  
   
 練習が終わって田中良夫(仮名)様はシャワーを浴び、乾燥マンゴーを食べながら左肩をマッサージしておられます。田中良夫(仮名)様が身体に塗っている消炎剤のツンとした匂いが部屋に巡回しはじめた中で先生との初邂逅を回想してみるとあたくしは、なんとなく自分が先生とお会いしてまだ一日も経過していない、と言う現実が信じられませんでした。魔法にかかっているような気分でした。
 
  

  


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