藝道日記。(平成 12/10/25)
平成十二年十月二十五日(水)。
   
 今日も朝早起きしてずっとメルマガとサイトの製作。接続が確保できているのだから、極力、いつも通りに仕事をしなければならない。目が覚めるとまだ暗い中で仕事を始める。するとしばらくして田中良夫(仮名)様はランニングと朝のジムワークに出かける。
 
  
 しばらくすると田中良夫(仮名)様が戻ってくるが、それでもあたくしはまだコンピュータを拡げ、作業をしていた。もしかしたらあたくしは世の中が時と共に移り変わって、周りの人が成長したり亡くなったりしてもずっとこうしてコンピュータの前に座って仕事しているような気さえしはじめた。ここはナコンシータマラート県の田中良夫(仮名)様の部屋だというのに全然、いつもと同じように首都圏の自分の仕事場にいる気さえしてくる。
  
   
 しかし、その幻覚に限りなく近い錯覚に歯止めを掛けてくれるものがひとつだけあった。それは、机だった。田中良夫(仮名)様の部屋には机がなかった。あたくしはとりあえず田中良夫(仮名)様に御願いし、部屋の隅に盥と一緒に転がっていた大きめのバケツを机として使わせてもらうことにした。
 
  
 当然バケツなのでマウスパッドを置く空間などは無い。マウスは床に置く。だから、マウスを使うたびにあたくしは右肩を下げなければならず、その度に、ここがナコンシータマラート県の田中良夫(仮名)様の部屋だと言うことを自覚しなければならない。
  
   
 田中良夫(仮名)様の部屋には机に限らずと言うよりありとあらゆるものがない。広い部屋の中央に布団が敷いてあり、そのまわりには生活必需品である五輪真弓のカセットテープとウォークマン。栄養補給のための粉ミルクやプロテイン、グルコースなどのサプリメント類。握力強化のためのハンドグリップ、昔懐かしいパイプナイロン張りの衣装ケース、などがあるだけだ。
 
  
 コンセントを使う電化製品は、湯沸かしポットしか見あたらなかった。枕元には情報収集と落書きのためのムアイサイヤーム誌。日本語の本はそれを読むために使う泰日辞書が二冊あるだけだった。

 壁には蚊帳とバナナがぶら下がっており、前の住人が書いたFuck the Policeなどという書かれた意図をどう推測していいのか分からない英語の落書きがある。壁には姿見が一枚、立てかけてあった。要するに、ここには必要でないものは何もない。机がないのも当然だった。
  

   
 田中良夫(仮名)様はこの部屋にいるときはほとんど寝ころんで身体を休めながらウォークマンで音楽を聴いて、辞書を引き、落書きをしながらムアイサイヤーム誌を読み、お湯を沸かしてサプリメントを取り、ときどき嗜好品である乾燥マンゴーや栄養源であるバナナを食べ、たまに起きあがって前の住人が、自慰行為禁止、と泰語のスラングで壁に落書きしている浴室で水浴びや洗濯をしたり、姿見の前で身体を動かしたりする。
 
  
 田中良夫(仮名)様にとっては寝転がって身体を休めることも仕事なのだ、と思う。田中良夫(仮名)様は部屋にいるときのほとんどを、布団の上で過ごす。練習と食事、水浴洗濯以外の時間はほぼ、病人のような生活である。

 こうやって整理してみると部屋にいるときの田中良夫(仮名)様は全然行動しない著しく非生産的な生き物のように見えるが、実際にはそうでもない。なぜなら先生が毎日のように部屋を訪れるからだ。
  

   
 先生は言葉で田中良夫(仮名)様に質問を投げかけ、そしてその回答について一緒に考える。脇でそれを見ているとソクラテスが弟子に産婆術を施しているようにも見えるし、女王様が豚男を言葉責めし辱めているようにも見える。

 先生は泰国拳闘技術用語を使って練習問題をつくり、それを田中良夫(仮名)様に問い、解答を出させる。田中良夫(仮名)様は先生に問いつめられるとその問いが求めている視覚的イメージを頭の中で作らざるを得ない。
 

  
 その視覚的なイメージはひとつだが、その解答がひとつだと言うことはない。先生は様々な解答を一緒に考え、その解答に関する議論が丁寧になされてゆく。その度に最初の問いは二人の頭の中で円環的にリフレインされる。

 フッサールの超越論的現象学の講義みたいだ、とあたくしは思った。こうして同じ事を何度も繰り返し問うことによってイメージが只の知識としてではなく映像として肉化せざるを得ない。良くワケが分からないまま頭を使って考えているうちにイメージが身体に身に付いてしまうのだ。
  

   
 先生が去られたあと、田中良夫(仮名)様は、左脳フル回転ですわ、とぼそりと言った。確かに先生と田中良夫(仮名)様の対話は高度な詰め将棋のようなものだと思う。しかもそれが凄く高度なので興味深く、あたくしも聞いていて自分の仕事に集中できない。

 午後からネット屋に行き、接続してサイトの更新とメルマガの配信をやって部屋に戻ると少年ボクサーが田中良夫(仮名)様の部屋に来ていた。先生が来ないときは少年ボクサーが田中良夫(仮名)様の部屋を訪れるようだった。そして勝手に田中良夫(仮名)様ウォークマンで五輪真弓を聴いて、口ずさんだりする。
 

  
 まさか五輪真弓もマレー半島のど真ん中で泰国籍の小学生が自分の歌を口ずさんでいるとは思ってないだろうと思う。少年ボクサーは時折田中良夫(仮名)様に話しかけたりするが田中良夫(仮名)様はあまりかまったりもせずにただ寝ころんでいる。どうやら少年ボクサー達にとってここは秘密基地のようなものらしかった。

 この部屋にいると、なんとなくすごく身の回りに密度の濃い時間が流れているような気がするのだ。
  


E-Mail:noboru@geocities.co.jp
(C) 2000 SHIRAISHI Noboru